エリート医師は美味しそうな看護師とお近づきになりたい
 病棟内のフリースペースにある窓から青色に塗られた空が見える。今年の冬は降雪量が少ないらしい。こうして明るい天気の日が多いと厳しい寒さも和らぐような気がする。と言っても勤務の日は陽が暮れるまで院内にいるので、陽光の眩しさに目を瞑ったり外気の冷たさに身を震わせる機会などほとんど無い。


 亨は本日退院する患者に今後の生活についての説明を行い、白衣の胸ポケットに挿したボールペンをカチカチと鳴らしながら病室を出た。 
 ワゴンを引く音、看護師と患者の話し声、時折鳴るモニターのアラーム音。
 午前中の病棟は賑やかだ。
 もう暫くしたらドレーン(体内に貯留した血液などを排出する為の管) 抜去の処置にも入らないといけないが、看護師の業務が落ち着いた頃でいい。プラプラ歩きながら病棟内を見て回った。清拭や洗髪に使っている石鹸の香りが廊下まで漂ってきている。


 ふとある個室の前で足を止めた。
 ドアが開かれたままだったので、部屋の中の様子――ベッドに上体を起こしている中年の男性患者と、ドアに背を向け丸椅子に座っているお団子頭の看護師――がよく見えた。看護師の白衣は腰の部分が絞られているデザインで、体のラインが如実に表れる。年頃の女性が目指すモデル体型ではなく、少々肉付きのいいスタイルには見覚えがあった。最近デート――と少なくとも亨は思っている――をしてぎくしゃくしたまま別れた黒野ゆえ彼女である。
「俺の血管見えにくいでしょ」
 宍戸と言う患者は禿げた頭頂部で日差しを反射しながらニヤニヤと笑った。彼の毛深い右腕に視線を落としていたゆえが顔を上げて「そうですねえ」と苦笑する。白くて柔らかそうな頬が大福を連想させる。亨が様子を窺っていることに二人は気付いていない。
「頑張ってみるので応援してて下さいね」
 冗談のつもりで言ったであろうゆえの言葉に宍戸が笑みを深くして、彼女のなだらかな肩をそっと撫でた。
「頼むよ。痛いのはやだからね」
 野太い声が甘えた響きを含む。ゆえの背筋が伸び、大きく息を吸ったことが分かった。ゴム手袋を纏った人差し指で男の前腕を探る。当たりをつけステンレスのバットから駆血帯を取り出すと「刺しますね」と呟いた。
「頑張ってね」
 おもむろに宍戸がゆえの頭を撫でる。その手が頬の擦り、またその先へと下っていく。襟元の中を探るように指先が忍び込んだとき、亨は努めて笑顔を作りながら「失礼します」と室内へ入って行った。
 すぐに宍戸の手が引っ込む。


「ルート(静脈内留置針)入れるの?今暇だから俺が代わるよ」
 亨がゆえの隣に立ちその顔を覗き込むと、彼女の焦点の定まらない瞳が恐怖一色に染まっているのが分かった。駆血帯を外そうとする手は震え、こめかみには汗が伝っている。浅い呼吸に胸がひっきりなしに動いている。隠してはいるがパニックに陥っていることは明らかだった。
 亨は男女ともに魅了できる外見であるという自負があるが、自分よりも強い相手に同意なくいかがわしいことをされた経験は無い。だからその恐怖感は想像の範囲を越えないが、目の前で体を強張らせる彼女が受けた苦痛は空気を伝播し亨の感情を刺激した。
「でもこれ看護師さんの仕事なんでしょ?」
 宍戸の窄めた唇に苛々が増す。
「彼女は針を入れるのが苦手なんですよ。宍戸さんに痛い思いをさせないように私が一発で決めてみせますから」
 亨が腰をかがめて微笑むと、宍戸はまんざらでもないように頬を緩め「そうかあ」と亨の前に腕を差し出し大仰に頭を下げた。
「じゃあ先生お願いします」
「任せてください。黒野さん、戻っていいよ」
 亨が振り向くと、ゆえは大きく何度も頷いて逃げるように部屋を出ていった。
 宣言通り、亨は一回で血管に針を留置した。
「先生はやっぱり違うなあ」
 機嫌の良さそうな宍戸に、立ち上がった亨が目を細める。
 どの角度から見ても美しい天の使いのような男に見下ろされ、宍戸は鼻の下を伸ばして笑い返した。
 亨が静かに語り掛ける。
「宍戸さん、一つ注意をさせて下さい。不用意にスタッフに触れるのはセクハラにあたります。医療や介護の現場では勘違いされる方も多いですが、そういった行為は許されることではありません。ご病気やその治療の間に心細くなったり人恋しくなる気持ちには共感しますが、今後同じことがあればこちらとしても厳しい対応を取らざるを得なくなります。互いの為に、どうか謹んで頂くようお願いします」
 凪いでいながら芯のある声色に、宍戸は悪戯を注意された子どものように口をパクパクしてから、恥じるように下を向いた。「ね?」と念押しする麗しい医師の凄みに、中年男性が肩を縮めて返事をする。


 病室を出た亨はゆえの姿を探した。しかし病棟を三周しても見つからず、しかし他のスタッフに行方を尋ねて関係を不審がられるのも面倒だったので大人しく詰め所で彼女が来るのを持つことにした。
 カウンターの前に腰を下ろし、用も無いのにパソコンを開く。
 深憂を掻き消すように前髪をぐしゃぐしゃと崩したとき、背後から「先生」と呼ばれ、亨は脊髄反射のように振り返った。

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