エリート医師は美味しそうな看護師とお近づきになりたい
 立っていたのは同い年の看護師、藍澤沙彩だった。
「何か久しぶりだね」
 亨が無理矢理口角を上げると、沙彩が呆れたように瞼を半分下ろした。
「私も毎日のように働いてますけどね。先生の眼中には入っていないだけで」
「ああ、そうだよな。……あの、黒野さんどこに行ったか知らない?」
「先輩なら気分が悪いからって休憩室に行って……あ、ほら。いますよ、あそこに」
 あそこに、の視線の先はエレベーターホールだった。理学療法士の制服を着た男と談笑をしている。
 気分は回復したようだ。亨は安堵する。しかし気になることがある。
「あれは誰?」
 男を指差し、沙彩のほうは見ないで訊く。
「理学療法士の赤木さんですね。よくリハビリに来てるんですけど見たことありませんか?」
「さあ、知らない」
「ワンコ系イケメンと看護師からも患者さんからも人気があります」
 目を凝らして見れば清潔感のある短髪に、ぱっちりとした瞳が可愛らしく、唇の間から覗く尖った犬歯がワンコっぽさを演出している。童顔がちな顔に筋肉質で大きな体のギャップは確かに女性ウケしそうである。

 しかし、だ。

「俺の方がいい男だろ?」
「方向性が違いますから何とも言えませんね」
「黒野さんは彼と仲がいいの?」
「話してるのはよく見ますけど。赤木さんのほうが懐いてる感じじゃないですか?」
 ふーん、と頬杖をついて二人を観察する。背の高い赤木と比べると、女性の中でもさほど大きい方ではないゆえの小ささが際立つ。直線的で硬質な男の体と、曲線的で軟質な女の体。影絵の中の男女が重なり合う妄想が亨の脳内に広がる。
 亨が唸ると、沙彩が彼の座っている椅子のキャスターを爪先で蹴った。尻への振動を抗議するように顔を向ける。沙彩の軽蔑を孕んだ視線が亨を攻めた。
「見なきゃいいじゃん。そんな顔して、嫌なら見なきゃいいんじゃないですか?」
「まあ、うん。そうなんだけど」
「あの二人は仲いいです。以上。解散」
 沙彩は面倒そうに言い切り、亨を退散させるように手を振った。細い腰が詰め所の奥に消えていく。


 思わぬところから聞きたくなかった情報を得て、亨は素直に落ち込んだ。いまだに喋り込んでいるゆえたちを見て溜息をつく。花のような明るい笑顔が赤木という男に向いていることが嫌だ。
 これ以上見ているとますます傷心しそうなので、急いで詰め所を出てエレベーターの脇にある階段へ駆け込んだ。ホールに居た二人に近付いたとき、肌が嫌悪でピリピリした。視界の端でゆえが動いた気配がしたが、見なかったことにして階段を踏む。


 控室のドアを開けると蜜橋が退勤の支度をしていた。
「あら、白川先生。失恋した女の子みたいな顔してますけど大丈夫ですか?」
「どんな顔ですか、それ……」
 蜜橋のおっとりとした声に少しだけ波立っていた胸の中が落ち着く。
「失恋っていうか、そうねえ。やきもち……みたいな」
 彼女は長い髪を揺らして首を傾け、ゆるやかに垂れた目尻に皺を寄せて悪戯っぽく笑った。
「まだ若いもんねえ」
 と言う蜜橋もまだ三十五である。八つの差があると年少者は若く見えるものなのだろうか。
「好きだと思ったら、捕まえてないと駄目ですよ」と彼女は子どもに言い聞かせるように優しく語って、バッグを肩に掛けた。
「頑張ってね」
 去り際に亨の肩を叩いた蜜橋を見送り、亨は部屋の真ん中で立ち尽くす。
「やきもち……」
 硬くなった餅のような独り言が空しく足元に転がった。


 時計を見ると二十二時まであと数分というところだった。
 亨は伸びをしてから立ち上がり、更衣室へ移動した。コートとマフラーを身に着け、病棟に書類を忘れたことを思い出して下りてきた階段を戻る。
 すでに消灯したフロア内で詰め所だけが煌々としている。
 準夜勤の看護師に不思議そな顔をされながらステンレスの棚を探る。目当てのクリアファイルを抜き取って「お疲れさまでした」と声を掛けエレベーターを持っていると、病棟の奥から歩いてくる白衣が見えた。
 心臓が跳ねる。
 トートバッグを下げたゆえが重そうな足取りで亨のほうに近付いてくる。ちょうど到着したエレベータが間抜けな電子音とともに開いた。一足で乗り込み、降下の揺れに身を任せる。彼女を意識し過ぎている自分が情けなかった。脱力して壁に寄りかかり、ゴンゴンと頭を打つ。
 街灯に粉雪が浮かんでいた。砂糖を振ったようにアスファルトが白く染まっている。雪の夜は普段より静寂が濃い気がする。それでも病院から徒歩十五分のところにある歓楽街から帰ってくる酔っ払いの気配に、少々空気が柔らかくなるのを感じる。亨は髪に絡む雪を払いながら踏み出した。
 病院を出てすぐの横断歩道で信号が変わるのを待っていた時、向こう側で短いスカートを履いた若い女が二人の男に声を掛けられているのが見えた。やり取りを見るに面識は無さそうである。酔っ払いのナンパだろうと、亨は雪に煙るその様子をぼんやりと眺める。時折聞こえてくる声で、女もまんざらではないことが分かった。
 青信号でその男女と擦れ違ったとき、一人の男が女の腰を抱き寄せているのが見えた。初対面の男に触れられても動じない――寧ろ嬉しそうな――女の逞しさに感嘆しつつ、はっと日中の記憶が思い出した。病室で患者に体を触られていたゆえの潤んだ双眸と青い顔。

 ――――先ほど帰る準備をしていたな。

 亨は思考するべく歩を止めて、しかし考えもまとまらないまま来た道を駆け戻った。
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