エリート医師は美味しそうな看護師とお近づきになりたい
 病院の職員用玄関の前から足跡が続いていた。亨が出てきたときには無かったはずだ。それを辿って走る。
 突き当りの郵便局を右折した先に、波打つ長髪を垂らした小柄な影を見つけた。等間隔の明かりの下に彼女が照らされる。亨は確信を持ち、その背中を追った。
 息を切らして彼女の数歩手前で足を止めると、足音に気付いたゆえも立ち止まり体ごと振り向いた。
「あれ、先生。お疲れ様です」
 目を膨らませた彼女が、亨の荒い息を察して「大丈夫ですか?」と距離を縮める。
「……ああ、うん、大丈夫。久しぶりに走ったから」
 はあと白い空気を吐き出し、呼吸を落ち着けた亨はゆえを見た。
 別に彼女は露出が多い服を着ているわけでも、特別目を引く美人なわけでも無い。横断歩道でナンパされていた色気のある女とは毛色が違う。しかし亨には、先ほどの女よりもずっと美味しそうに見えるのだ。甘い香りがして隙だらけで危なっかしく、そんな彼女を危険に晒したくないのだ。


「ゆえさんの家の近くにある本屋に行くんだ。途中まで同行してもいい?」
 数回訪れただけでアパートの近くにある建物を覚えていた自分を褒めたいと亨は思った。
「その本屋さんは多分もう閉店していますよ」
 二十二時までなので、とゆえは自分は本屋の店員でも無いのに申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「それは……困ったな」
 思わず額を撫でる。
 勿論、閉店を嘆いているのではなかった。ゆえを送っていく理由を見つけるのが難しいのだ。
「もしよろしければ私が代わりに買ってお渡ししますよ」
「うん、そう、そうだよな。うーん……」
「何かお悩みですか?」
 ゆえの頭と肩に雪のトッピングが積もっている。鼻先が赤い。深夜に道路わきで立ち止まっている場合では無いのに、亨は唇の裏を噛んで考えあぐねていた。うんうん悩んでいるうちに亨の後ろから喧騒が近付いてくる。ゆえが不安そうに眉尻を下げた。


「若いもんがお熱いね~。これから二人で帰るんでしょ?エッチなことするんでしょ?羨ましいね~。俺たちも店のおねえちゃんと遊んできたところなんだよ。もう体ポカポカ。君たちもあったまりな~」
 左右に揺れながら歩いてきた酔っ払いの中年男性四人のうち、一番体格のいい男が亨の肩に重い腕を回した。
「にいちゃんいい顔してんなあ。モテるだろ?入れ食い出来るうちに楽しめよ~。ねえちゃんもこんな色男捕まえて、随分なヤり手なんだろうなあ。こんな大人しそうな女がベッドの中で乱れるところ見てみたいねえ」
 男が亨を離し、ゆえの顔に手を伸ばす。取り巻きの下品な笑い声が耳鳴りのように鼓膜に反響する。亨は男の腕を掴み上げ、甘い造形の目元はそのままに険を湛えた瞳を男に向けて口元だけで微笑んだ。
「恋人に勝手に触らないでくれますか」
 礼然とした声色に、男は「冗談だよう。可愛い若者をからかっただけ」とふざけ、再び笑い声を上げながら通り過ぎて行った。
 見ると、ゆえはマイナスの気温のせいではなく身を縮めて凍結していた。


「大丈夫?酔っ払いはめんどくさいよな」
 亨の静謐な声を聞き、ゆえははっと思い出したように笑顔を貼り付けた。
「そ、そうでした。私、帰ります。先生もお気をつけて」
 ぎこちない言動から、彼女の動揺が痛いほど伝わってくる。逃がさないように掴んだ腕は震えていた。彼女の辛苦に寄り添うのが自分でいいのか分からない。しかし、今は自分しかいない。悲しみは遅効性の毒のように人を殺す。実母の悲しみや苦しみを見過ごした日々の罪とその罰を負った自分に出来ることは、彼女を一人にしないことだ。
「先生?」
「まだ一緒にいたい」
 え?と戸惑ったような声を聞く前に、亨はゆえの体を抱いた。互いの厚いコートのせいで体が密着せず、それがもどかしくてますますきつく抱き締める。
 胸のあたりにある亨の頭に頬を寄せ「寒いから泊めてよ」と蕩けるような声で囁くと、彼女が身動ぎをし亨を見上げた。
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