エリート医師は美味しそうな看護師とお近づきになりたい
「アパートも十分寒いですよ」
「それでもいいから」
ゆえは思案するように俯き、一拍置いて恐々と亨の背に手を乗せた。
「先生は女性とのお付き合いに慣れているんでしょうね。私も、先生に触れられても嫌な感じがしないんです。優しくして下さるからかな」
赤い顔で言われ、亨は星の瞬く天を仰いで目を閉じた。瞼の裏では星が弾けて閃光が走っている。
嫌な感じがしないということは、もっと触れてもいいのか。
個室のオヤジも酔っ払いのオヤジも駄目だけど俺ならいいのか。
俺だけは特別なのか。
興奮と歓喜に胸が高鳴る。
「あ、先生寒いですよね。お顔が赤いです」
多分寒いせいじゃないけど何度も頷いた。ゆえに促されるまま歩き始める。
途中のコンビニで弁当を買い、ゆえの住むアパートに着いた頃には二十三時を回っていた。軋む外階段の手すりをしっかり握りながら上り入った部屋は冷蔵庫の中のような寒さだった。そういえば暖房は無いと言っていた。ゆえが畳んであった毛布を一枚亨に渡す。
「これだけでは寒いかもしれませんけど……」
確かに無いよりはいいだろうとありがたく受け取る。
テーブルに九十度の角度で向かい合って座り、温めた弁当を食べた。勧められるまま熱い湯に浸かり、用意してあった男物の浴衣と羽織を着た。曰く、亡くなった祖父のものらしい。
「時代劇の若旦那様みたいです」
ゆえは喜んで手を合わせた。
引かれた布団に亨が勝手に横になっていると、その間に入浴を済ませたゆえが生地の薄いスウェット姿で出てきた。サイズが小さいのか、妙に胸の輪郭と質感が強調される服だ。亨は携帯のディスプレイを見ているふりをして彼女の行動を窺った。部屋干ししていた洗濯物を爪先立ちでカーテンレールから外し、軽く畳んで押入れに仕舞う。胸の膨らみが揺れている。
亨は見てはいけないものを見ている気がして堪らず「あのさ」と声を出した。
「看護師さんならもっといいところに住めるんじゃないの」
小さな鍋に火を掛けているゆえの背中が動作を止めて考え込む。台所から流れ込んでくる甘いアルコールの香りにほんのり酔いそうな心地になっていると、彼女が亨に微苦笑を向けた。
「私、母に仕送りをしているので、手元にはあまり残らないんです」
「……そうか。立派だな」
ゆえの予想外の返答に亨は内心困惑していた。子が親へ金を送らなければいけない状況が身近に存在しているなんて思わなかった。母、ということは父は不在なのだろうか。しかし子も成人しているのだし大人一人くらい自分で食っていけそうなものだが。色々な考察をして、しかしどの案もデリケートな内容に触れることになるので、亨は言葉を紡げなかった。
「立派ではないのです。本当は近くにいて支えなければいけないのに、私はそれをしていないから」
「母君は何か患ってるの?」
ゆえは鍋の中身をお玉で掬って湯呑に注ぎ、二つ揃ったところで手を止めた。
「精神的なものを」
そうか、と呟いているうちにゆえが戻ってきてテーブルに湯呑を置いた。亨が起き上がり我が物顔で口をつけると、口内に癖のあるふくよかな甘味が広がる。初詣でよく配っている甘酒というやつだ。
彼女も腰を落ち着けて湯呑を傾ける。ほうっと息をつくと「私は嫌われているんです」と寂しそうに笑った。とろとろと胃に落ちた甘酒が内臓を優しく温める。亨は何というわけでも無くドアの方に視線をやって「俺は好きだけどな」と唇の先で呟いた。
「温かくて、甘くて、優しくて」
ゆえは目を丸くして首を傾げた。
「……甘酒、おかわりしますか?」
「そうか確かに!」
亨は人差し指を立てて勘違いされたことを笑い、「ごちそうさま」と湯呑を置いて再び布団に潜った。ゆえの香りと動く気配を感じながら目を瞑る。まだ眠るつもりは無かった。寝たふりをして慌てる彼女の反応を見るという魂胆があった。しかし甘酒の微小なアルコールが効いたのか、白い睡魔が手を引いてくる。意識が連れていかれるまで時間はかからなかった。
夢の中でも、やはり亨は眠っていた。横になっているが浮遊感がある。頭がぼんやりしていて目を開けることも億劫だったが、夢の中とは言え社会人の性なのか時間が気になった。瞼が重い。別に何時でもいいか。まだ暗そうだし。明日は日勤なのだから朝までは眠れる。亨は時間を確認することを半ば諦めながら静かな呼吸を繰り返す。
空気の中に石鹸の香りが混じり始めて、身の回りの異変を感じた。瞼の向こうの闇が深まり、体の両わきのシーツが沈む。
目を開けて確認すればいいのに、亨は何となくそれが悪いものではないような気がして放っておいた。両手足は鉛をぶら下げているように重いし、瞼は接着剤を付けたように動かない。
石鹸の香り、目前の深い闇、体の側に置かれた何か。
亨がすうと息を吸ったとき、唇に何かが触れた。
「それでもいいから」
ゆえは思案するように俯き、一拍置いて恐々と亨の背に手を乗せた。
「先生は女性とのお付き合いに慣れているんでしょうね。私も、先生に触れられても嫌な感じがしないんです。優しくして下さるからかな」
赤い顔で言われ、亨は星の瞬く天を仰いで目を閉じた。瞼の裏では星が弾けて閃光が走っている。
嫌な感じがしないということは、もっと触れてもいいのか。
個室のオヤジも酔っ払いのオヤジも駄目だけど俺ならいいのか。
俺だけは特別なのか。
興奮と歓喜に胸が高鳴る。
「あ、先生寒いですよね。お顔が赤いです」
多分寒いせいじゃないけど何度も頷いた。ゆえに促されるまま歩き始める。
途中のコンビニで弁当を買い、ゆえの住むアパートに着いた頃には二十三時を回っていた。軋む外階段の手すりをしっかり握りながら上り入った部屋は冷蔵庫の中のような寒さだった。そういえば暖房は無いと言っていた。ゆえが畳んであった毛布を一枚亨に渡す。
「これだけでは寒いかもしれませんけど……」
確かに無いよりはいいだろうとありがたく受け取る。
テーブルに九十度の角度で向かい合って座り、温めた弁当を食べた。勧められるまま熱い湯に浸かり、用意してあった男物の浴衣と羽織を着た。曰く、亡くなった祖父のものらしい。
「時代劇の若旦那様みたいです」
ゆえは喜んで手を合わせた。
引かれた布団に亨が勝手に横になっていると、その間に入浴を済ませたゆえが生地の薄いスウェット姿で出てきた。サイズが小さいのか、妙に胸の輪郭と質感が強調される服だ。亨は携帯のディスプレイを見ているふりをして彼女の行動を窺った。部屋干ししていた洗濯物を爪先立ちでカーテンレールから外し、軽く畳んで押入れに仕舞う。胸の膨らみが揺れている。
亨は見てはいけないものを見ている気がして堪らず「あのさ」と声を出した。
「看護師さんならもっといいところに住めるんじゃないの」
小さな鍋に火を掛けているゆえの背中が動作を止めて考え込む。台所から流れ込んでくる甘いアルコールの香りにほんのり酔いそうな心地になっていると、彼女が亨に微苦笑を向けた。
「私、母に仕送りをしているので、手元にはあまり残らないんです」
「……そうか。立派だな」
ゆえの予想外の返答に亨は内心困惑していた。子が親へ金を送らなければいけない状況が身近に存在しているなんて思わなかった。母、ということは父は不在なのだろうか。しかし子も成人しているのだし大人一人くらい自分で食っていけそうなものだが。色々な考察をして、しかしどの案もデリケートな内容に触れることになるので、亨は言葉を紡げなかった。
「立派ではないのです。本当は近くにいて支えなければいけないのに、私はそれをしていないから」
「母君は何か患ってるの?」
ゆえは鍋の中身をお玉で掬って湯呑に注ぎ、二つ揃ったところで手を止めた。
「精神的なものを」
そうか、と呟いているうちにゆえが戻ってきてテーブルに湯呑を置いた。亨が起き上がり我が物顔で口をつけると、口内に癖のあるふくよかな甘味が広がる。初詣でよく配っている甘酒というやつだ。
彼女も腰を落ち着けて湯呑を傾ける。ほうっと息をつくと「私は嫌われているんです」と寂しそうに笑った。とろとろと胃に落ちた甘酒が内臓を優しく温める。亨は何というわけでも無くドアの方に視線をやって「俺は好きだけどな」と唇の先で呟いた。
「温かくて、甘くて、優しくて」
ゆえは目を丸くして首を傾げた。
「……甘酒、おかわりしますか?」
「そうか確かに!」
亨は人差し指を立てて勘違いされたことを笑い、「ごちそうさま」と湯呑を置いて再び布団に潜った。ゆえの香りと動く気配を感じながら目を瞑る。まだ眠るつもりは無かった。寝たふりをして慌てる彼女の反応を見るという魂胆があった。しかし甘酒の微小なアルコールが効いたのか、白い睡魔が手を引いてくる。意識が連れていかれるまで時間はかからなかった。
夢の中でも、やはり亨は眠っていた。横になっているが浮遊感がある。頭がぼんやりしていて目を開けることも億劫だったが、夢の中とは言え社会人の性なのか時間が気になった。瞼が重い。別に何時でもいいか。まだ暗そうだし。明日は日勤なのだから朝までは眠れる。亨は時間を確認することを半ば諦めながら静かな呼吸を繰り返す。
空気の中に石鹸の香りが混じり始めて、身の回りの異変を感じた。瞼の向こうの闇が深まり、体の両わきのシーツが沈む。
目を開けて確認すればいいのに、亨は何となくそれが悪いものではないような気がして放っておいた。両手足は鉛をぶら下げているように重いし、瞼は接着剤を付けたように動かない。
石鹸の香り、目前の深い闇、体の側に置かれた何か。
亨がすうと息を吸ったとき、唇に何かが触れた。