エリート医師は美味しそうな看護師とお近づきになりたい
 ふっくらとして柔らかく、乾いているのに滑らかな感触は、間違いなく人の唇だった。衝撃的ではあったが嫌な感触では無い。寧ろ気持ちがいい。一回呼吸をする間だけくっついて離れていったそれが惜しく何となく手を伸ばした。本当に人ならばそこに頭が筈だ。
 やはり柔らかい髪に触れる。癖のある長髪が一筋落ちて、親指が耳らしきものを撫でた。亨の顔の上で吐息が漏れた気がした。両手を耳から内側に滑らせる。桃のような大福のようなカーブと弾力性を確かめ、それを優しく引き寄せた。亨と同じ石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。抵抗される心構えはあったが、思いのほかあっさりとそれは彼の唇の上へ戻ってきた。角度を変えて啄み、感触を楽しむ。
こういうキスをするのはいつぶりだだろう。レモンの味では無くミントの風味だが最近食べたものの中でも一等美味しく感じられる。
 しかしすぐに物足りなくなった。芽を出したいやらしい欲求に従い、息継ぎの為に開いた口にそっと舌を差し込んでみる。身を引こうとする頭を固定し相手の舌を掬って舐め上げた。重なりな撫で合い、たどたどしくも上手に相手をしてくれることが愛しく愉快で煽情的で、これで欲情しない奴がいたらそいつは極寒の海辺に全裸で放置しておいても耐えられるんじゃいかと思った。夜の静寂にくちゅくちゅと唾液が遊ぶ音が響く。
 そのまま片手を、頬から首に、もっと先へ下ろしてみた。ゆたかなふくらみに触れる。ぴくっと跳ねた体をそのまま抱き寄せると、耳元で「ひゃあっ」と聞き慣れた声が上がった。

「俺はまだ夢の中にいたほうがいいかな、ゆえさん」

 亨が目を開けると、予想通り、豆電球の薄明かりに影が浮かんでいた。
 王子然とした微笑と囁きに、彼の体の上に引き乗せられた影――ゆえが肩を縮めて「すみません」と消え入りそうな声で謝る。
「すみません、あの……魔が差してしまって……!」
 肩に埋まったゆえの髪を撫でながら、亨は彼女の可愛らしい言い訳とその後について考えを巡らしていた。自分の容姿と財力に魅せられた女に襲われた経験など星の数ほどもあるが、彼女もその同類と見なしていいのだろうか。受け入れれば喜んで奴隷にもなるだろうし、突き放せば罵倒され根も葉もない噂を流される。黒野ゆえという人がどういう人だったか、最近の交流の中で十分に知ったような気もするし、いまだに朧のようでもある。
 しかし自分自身もこういう展開を期待していたことは間違いない。
 優しい笑顔も穏やかな声も、紅を塗ったように赤い唇も、今自分の胸を押し潰してくるたわわな双丘も、厚過ぎず脂肪のついた柔らかな腰回りも、体中味わってみたくて仕方が無いのだ。
 誠実な付き合い方は出来なくても、深い関係になることを許してくれるだろうか。自分に好意的であることが分かった今ならば、押せばいけるかも。
 まず一度体を結んでから――――……。


「あ、味見をしてみたかっただけなんです。先生があまりに綺麗で、唇も桃みたいに可愛らしい色をしていて、もしかしたら甘いんじゃないかと思ったら耐えられなくて……本当にすみませんでした」
 ゆえがいきなり顔を上げるので亨はぶつからないように顎を反らした。亨の上で少しだけ上体を浮かせたゆえの目は潤み、顔は風呂上がりのように真っ赤だった。
「味見か。俺はケーキや羊羹と同じってこと?」
「そういうわけでは無いんですけど、本当に無性に食べてしまいたいと思ってしまって……おかしいですよね。ごめんなさい。私、どうしてこんなに気持ち悪いこと」
 起き上がろうとするゆえを自分の上に抱き直し「ゆえさんは」と亨が彼女の耳に唇をくっつける。
「俺のことが好きなの?」
 耳孔をに直接注がれる低音にびくびくを体を震わせながら、ゆえは亨を見上げた。泣きそうな表情できつく噛んだ唇には意思のある返答を含まれているように亨には見える。
「あんまり噛んじゃだめだよ」
 亨がゆえの唇の先に人差し指をあてると、それが合図となったように彼女が口を開いた。

「先生のこと、好きです」

 言い終わった刹那、亨はぎゅうと首に抱きつかれ音痴なカエルのように呻いた。それでもゆえの腕の力は強まるばかりで解ける気配は無い。照れているのだろう。可愛らしいことだ。しかしこのままでは本当に失神しそうなので降参の意を込めて彼女の背を何度か叩いた。
 はっと気付いたゆえが腕を離し、亨の体の上から飛び退く。
「だだだ大丈夫ですか」
「あ、うん、ゆえさん見かけによらず力強いよね」
 亨が咳き込みつつ上体を起こすと、ゆえは眉を下げながら「本当に、困らせてしまってすみません」と俯いた。
「こんなの犯罪です。不同意わいせつ罪と暴行罪で警察に突き出して下さい」
 ああ、でも母と妹のことは――……と続けるのを、亨は華奢な肩を掴んで遮った。
「いや、別に警察とかそういうのは考えてないから。寧ろ突き出されるとしたら俺の方だから」
 呆然としているゆえの両頬を掌で捕まえて、亨は彼女を真っ直ぐに見つめた。暖色の暗闇に慣れた目が、互いの虹彩と瞳孔の境界さえ鮮明に映す。室内はきんと冷えている。それでも体は熱かった。亨が柔らかに目を細める。
「俺もずっとゆえさんのことを考えてたんだ。もっともっと仲良くなりたいって。仕事仲間でも友人でもなく、ね」
 どう?と首を傾げると、ゆえはますます頬を熱くさせた。
「そ、それは、どういう……」

「セフレになって欲しい」

 亨の活舌のいい明るい声が室内に反響した。セフレ、とゆえが目を丸くして反復する。
「一番大事にするよ」
 輝く眼光でゆえを見据えたまま、亨は後光が差すような神々しい笑顔で宣言する。
 対する彼女は眩しそうにパチパチと瞬きを繰り返して、やがて嬉しそうに「はい」と答えた。

 
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