エリート医師は癒し系看護師とお近づきになりたい

 どうしてこうなった……。

 亨は上体を起こして自分の置かれている状況を確認し、まずは心を落ち着けようと頭の後ろ側にある窓を見た。
 太陽は高いところから世界を照らし、空には清々しい露草色が塗られている。紅葉した木の葉は風にそよぎ、時折連れ去らわれては見えないところへ去っていく。自分の実家やマンションの広い窓から眺める風景もいいが、こういう実に庶民的な――窓枠が錆びれカビの跡が残っているような――窓から見る秋も風情がある。亨は焼き付けるように瞳に秋を映し、現実を確かめるために顔を正面に戻した。
 左足の脛と足首の間にゆえのあたまが乗っている。
 スラックスの布越しに伝わってくる重さとぬくもりがそれを確固たる事実だと伝えてくる。
 亨のほうを向いている寝顔は世の中の汚れを知らない赤ん坊のように穏やかで、その小さな平和だけでも守ってやりたいと思わせるような無防備さと危うさが秘めている。暖房のついていない部屋は冷えていて、ゆえも胎児のように体を縮めて眠っていた。
 腰を曲げて手を伸ばす。
 ゆえの顔にかかった髪をそっと払って様子を見る。起きる様子はない。
 一本一本が細く、梳いたときに指の間にひっかりそうな毛質だった。シャンプーのせいかもしれない。そういえばいかにも安そうなフローラル香りがする。前髪に手を置いてみると、ゆえが少し身動ぎをしたのですぐに離した。


 女と触れ合ったのは久しぶりだ、と思ったが週の半分くらいは女と肌を密着させるようなことをしているのだった。そういうことには不自由したことがない。亨は一昨日抱いた女の汗ばんだ肌を思い出した。顔を近付けると鼻腔を刺激する化粧品の匂いにくしゃみが出たような記憶がある。
 そういえばゆえは随分薄化粧……いや、化粧をしていない気がする。体の一部が触れているこの距離でも、粉っぽさや彩りがみとめられない。普段は赤みのある肌や唇も貧血により色が失せているせいか、顔全体が茹で卵のようにのっぺりとしている。
 ゆえの頭上でUFOのように滞空していた手を彼女の頬に重ねる。実際は茹で卵のようなしっとり感は無く、乾いてさらさらとした手触りだった。そして随分冷えている。
「つめた」
 思わず呟き温めるように手を当てていると、亨の体温がゆえの頬にじんわりと熱を伝えていくのが分かった。起きてしまうかと気が気でなかったが、彼女の呼吸のリズムに乱れはない。触れたところから互いの体温が均されていく。
 スラックスのポケットに入っているスマホを取ろうと試みたが、腰が浮きゆえを起こしそうなのでやめた。代わりに暇を持て余した親指が彷徨い始める。
 右手の親指の先が彼女の下唇の端に触れ、そのままゆっくりと反対側の口角へ移動する。ところどころカサついてはいるが柔らかく滑らかだ。今度は上唇の感触を指の腹でなぞり確かめる。薄いとも厚いとも言えないふくらみ。指が丘を滑る。亨は引き寄せられるように顔を近付けた。

――くしゅんっ。

 ゆえのくしゃみに亨の体が大きく跳ねて、その衝撃を受けた彼女の目が開いた。
「ご、ごめんなさい。え、私ずっと先生の足をお借りして……」
 体を起こしたゆえが焦ったように亨の足を擦る。擦ったところでそこで寝ていた事実は消えないのだし、ゆえの頭の重みで痺れていた感覚もすぐには戻らないのだが、何となくその様子が面白かったので亨はされるがままになっていた。
「私、寝言とか言っていませんでしたか?」
「……そういえば何か言ってたな」
 えっ、とゆえが弾かれたように顔を上げる。
 亨は目尻を細めて「ないしょ」と口の前で人差し指を立てた。それを見たゆえが両手で顔を覆い項垂れる。
「恥ずかしいです……」
「でしょうね」
「すみません……」
「俺は迷惑どころかむしろ――」
 言いかけて、唾と一緒に言葉を飲み込み立ち上がった。彼女も顔を上げる。
「そろそろお暇するよ」
 戸を開けて真っ直ぐに玄関へ向かうと、背後から足音がついてきて「大したお礼もできずすみませんでした」とゆえが頭を下げた。亨は彼女に背を向けて靴を履きながら「別に俺も大したことしてないし」と何ともないふうに返す。
「ごちそうさまでした」
 亨が背を伸ばしてゆえのほうへ向き直る。彼女は「とんでもないです」と胸の前で両手を振った。
「あの、寝言のことは……」
「ああ、言わない言わない」
 亨が悪戯っぽく笑うと、ゆえは火をつけたように顔を赤くした。何を言ったと思っているのだろう。
 玄関ドアを開ける。火照った体を冷ますにはちょうどいい風が吹いていた。
「また、病棟で」
 部屋を出ると、亨はオートマチックにスマホを取り出し、頭に入ってこないニュースに三度目を滑らせた。
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