エリート医師は美味しそうな看護師とお近づきになりたい
「で、あの後どうなったの?」
兄の亨は電話口で心配そうな声を出した。まだ何も答えていないのに玲音の行いに対して呆れているようにも聞こえる。日が変わる前の、静かで深い闇の広がる夜だった。
竜はベッドのマットレスから背を剥がし、足を下ろしてベッドサイドランプをつけた。暖色の淡い光が胸の中ににぬくもりをも灯す。秋の気温にパジャマ一枚でいるのは体の末端から冷えが上ってくるが、長い話をするつもりはないので我慢する。
「路駐してたから早く帰ろうとしたんだけど、先に歩いてた緑川さんがあんまり怒って行くから気になって――――」
暫く車内で考えて、追いかけた。
近くのコンビニの前に置いてあるスタンド灰皿で煙草を吸っていたから、竜はいつも通りの坦々とした声調で声を掛けた。煙草を持っていないほうの玲音の手には重そうなビニール袋が握られていた。
「酒?」
「……何で来たの?」
沈黙が生まれる。質問に答える気はないようなので、先に竜が返す。
「別に。煙草吸いたかっただけ」
「車で吸えばいいじゃん」
「車の中では吸わないことにしている」
竜がジップパーカーのポケットから煙草の箱を取り出したのと同時に、玲音は短くなったそれを水の入った灰皿に落とした。風に揺れる毛先を煩わしそうに顔から避けて身をひるがえす。
置き土産とばかりに険しい顔を竜に向けて行こうとする玲音の腕を、竜は思わず掴んだ。
「何?」
玲音が棘のある声を竜に刺す。
「一本くらい付き合えよ」
「何で?」
「今、火つけたから」
「一人で寂しく吸ってればいいじゃん、いい大人なんだから」
「家まで送ってやる」
「遠慮する」
「いいから」
竜が細い腕を強く引っ張ると、玲音は足をもつれさせて体勢を崩した。竜は待ち侘びたようにその体を抱きとめる。小柄な玲音は竜の腕の中にすっぽりと収まり、しかしすぐに竜の筋肉質な腹に肘打ちを食らわせた。鋭い攻撃にぐっと竜が体を折る。
「あんたのせいで転ぶところだった」
玲音は苛々した表情を隠さず握った拳の側面で竜の肩を叩いた。
竜の持っていた煙草の灰が歩道のタイルに落ちる。
「殴るなよ。痛い」
「痛くしてんだよ」
「一本」
「しつこい」
「じゃあただで送る」
「真っ直ぐ帰るんじゃないから」
「付き合う」
玲音は嫌味のつもりで大きな溜息をついたが、竜は煙草を消して玲音の手首を引き、亨のマンションに引き返そうと足先の方向を返った。
「だからいいって! 変態! 触んな!」
声を荒げる玲音を気にする素振りも見せず、強引に連れて行こうとする竜に彼女は再び嫌味の舌打ちをしたが、先を行く竜は振り返ることもしなかった。代わりに擦れ違う通行人が視線を投げかける。それに対しては居心地が悪く、玲音は諦め半分に口を噤んでされるがままについて行った。
あれよあれよという間に竜の愛車である黒のクーパーの助手席に乗せられる。目的地も無く車は走り出した。
「どこに行きたいんだ?」
「もう家でいい」
窓の外を見ながら投げやりに言う玲音に、竜は目を半分にする。
「海でも山でも連れて行く」
「そんな遠いところじゃないから」
「じゃあどこ」
少しの静寂の後、玲音は新車独特の匂いがする空気を深く吸い込み息をついた。竜はひそかに玲音の様子を窺う。彼女は車に乗ってからずっと竜と視線を合わせなかった。
「……美術館」
走行音に掻き消されそうな小さな声で玲音は言った。竜はその単語を瞬時には咀嚼できず、瞬きをしながら思考を巡らす。
「……何をしに?」
粗暴な玲音の印象と違い過ぎる芸術の園を指定され、竜は意外な感情を隠さず訊き返す。彼女は「ほら。やっぱりいい」と不貞腐れたように言った。
「別に悪くない」
「あんたは興味ないだろ」
「無くは無い」
ふんと鼻を鳴らして、玲音はずっと外を見ていた。
彼女の香水の香りが車内を満たしていくのを、ひそかに好ましく思いながら車のナビを設定する。矢庭に玲音が煙草を取り出すのを手で制し、「禁煙」と囁くと、不満げながら大人しく仕舞うので硬い口角が僅かに上がった。
「楽しい?」
「まあ」
「趣味悪」
美術館の場所尾がそれほど遠くないのが、竜には残念でならなかった。