エリート医師は美味しそうな看護師とお近づきになりたい
気性に似合わずフロントドアを閉める音が優しかったので、既に美術館を目指して歩き始めた小さな背中に興味を引かれるまま目で追った。車のそばで立ち止まっていると、竜が背後について来ていると思っていたらしい玲音が振り返り、怪訝そうな顔をする。
「行かないの?」
 問われ、竜は貼りつけままだった視線を剥がして足を踏み出す。見間違いでなければ、安心したような表情を浮かべた玲音は再びコンクリートの外壁に顔を向けた。
 先に二人分の入館料を払おうとした彼女を遮って財布を出すと、玲音は竜の背中に「何で」と不満そうに呟いた。
「俺が誘ったから」
「そういうのやなんだけど」
「じゃあ今度からは折半で」
 頷く玲音の頭に竜が手を置く。彼女はすぐに怒った猫のようにその手を払った。


 丸く切り取って天井の採光取りに使っているいるガラスを見上げながら、玲音は順番通りに絵画の飾られた部屋に入っていった。華美な装飾の施された金色の額縁に、様々な油絵が収まっている。 彼女は一々足を止め、顔を近づけて舐めるようにそれらを見ていた。あまりにも熱心で、しかし本人はあまりにも無防備で、例えば誰かが危害を加えようと近付いても、至近距離にならないと気付かないだろうと思った。竜がそばにいると拒絶の言葉や文句ばかり吐くのに、それもない。館内の雰囲気に溶け込むように息をひそめている。
 竜には美術品の価値や良し悪しが分からない。さほど興味もない。しかし夢中になっている玲音を見るのは悪くなかった。寧ろそちらのほうが主体になっている。
 花束を持った少女。灯台。ペガサス。パプリカ。裸の男。
 何がそんなに面白いのか。分からないが彼女が楽しそうなのでよかった。
 竜は自覚なく、彼女を見守る母親のような兄のような慈愛に満ちた表情で歩調を合わせて歩いた。


 一番奥の部屋で、玲音が長い時間見ていたのは室内から窓の外を描いた一の枚だった。外は青々とした芝生と赤い花の咲いた生垣が広がっていて、中央には太い根を這わせた大きな木が一本生えている。アーチ型の窓枠は白く塗られた木製で、両側に大きく開いていた。光と影の繊細な色使いが美しい。
「それがお気に入りなのか」
 竜が玲音の背後に立つと、その絵の下にあるプレートに書かれた作品名と作者が記されているのが見えた。
『記憶』『緑川レオン』
 それを確認した途端、竜は思考に集中するため息を止めた。
 氷漬けになったように動かない竜の様子を見て、玲音が握った手の甲で硬い胸を叩く。
「もう見るな」
 先ほどまでの無邪気な眼差しを凶器のように尖らせて、彼女は竜の横顔を見つめた。
「これ」
 竜の口が戸惑いを内包しながら動く。
「そう、私が描いたの。この部屋にあるのは県内のアマチュア作家が描いた絵」
「絵描くのか。上手いな」
「お世辞なんか要らないから。ほらもう行くよ」
 玲音が竜の腕を引っ張って部屋から出そうとするが、踏ん張った竜の体は動かず、代わりにポケットからスマホを取り出して、カシャッと玲音の絵を写真に撮った。
「何する馬鹿!」
 玲音が鬼の形相で竜に突っかかる。
「好きな絵だったから。駄目なのか?」
「駄目!」
「何故?」
 だんだんと顔を赤くしていく玲音を見て、竜は得も言われぬ苦しさと火照りを胸に感じた。心臓から肺尖、肺底に広がって、鳩尾の辺りで収束する痛み。思わず救いを求めるように手を伸ばした。
 掌で包み込むように触れた彼女の頬は想像通りの熱さを持っていた。
 驚いた玲音が一歩下がろうとしたのを、もう一方の手で捕まえる。
 気付いたときには柔らかい感触が竜の唇にあたっていた。否、自分があてていたのだ。同じくらいの体温、ふっくらとしていて、いつまでも触れていたくなる心地よさ。しかしすぐに、膝に衝撃を受けて思わずしゃがみ込んだ。
「……痛いだろ」
「痛いのはこっちの心臓だばーか! お前なんか嫌い! まじで嫌い!」
 体を強張らせて吠える玲音の顔は水彩絵の具を原色で塗ったようにますます赤かった。肩を怒らせながら部屋を出ていく。竜は追いかけようとしたが今更になって呼吸が苦しく、立ち上がれなかった。気ばかりが急いたがどうにもならない。


 体調が落ち着いた頃に玲音を探したが、館内のどこにもいなかった。建物の外側一面に取り付けられたガラスから先ほど見えたタクシーに乗って行ったのかもしれない。そうだったらいい。安全に帰ってくれたらいい。いきなりあんなことをしておいて、今更案じるのも可笑しな話だが。竜は己の幼稚で浅はかな行いを悔い、悄然としながら帰路についた。
 不安定で危うげで、放っておけばいいのに目で追ってしまう。
 しかしもう潮時なのかもしれない。
 連絡先も知らないし、会ってもこれまで以上に拒絶されるだろう。
 竜は玲音が吸っているものと同じ銘柄の煙草を肺の奥まで吸い込んで、溜息混じりの煙を、車が霞むくらい吐き出した。 
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