早河シリーズ最終幕【人形劇】

「みんな逃げて!」
「救急車と警察!」

 廊下から聞こえた叫び声の直後、幾つもの大きな足音にガラスが割れる音と女性の悲鳴が響いて、悠長に携帯を触っていた生徒達も青ざめた顔で動きを止めた。

「ねぇ……これヤバイよ」
「他のクラスの子達がこっちに逃げてくるよ!」

廊下側に面した窓から顔を覗かせた生徒が叫ぶ。

「貴重品だけを持ってすぐに動けるようにして!」

 英語担当の橘教諭が指示を出す間も、有紗のクラスの前を何人もの生徒や教師が走って通り過ぎていく。

「早く逃げて!」
「ナイフ持ってるっ!」
「切られた子がいるの! 逃げないと襲ってくるよ!」

有紗のクラスに向かって、他のクラスの生徒が通りすがりに叫んだことで生徒達は血相を変えて教室を飛び出した。

「これ……血?」
「ヤバイよ! ナイフ持ってるって……」
「階段、1年と2年がいっぱいいて降りられないっ!」

 生徒や教師が殺到してすしずめ状態の廊下はパニックに陥っていた。教室を一歩出た有紗もその光景に愕然とする。
廊下の床に点々と落ちる生々しい赤い液体は上を通った生徒の上履きによって擦れていた。

 後方からまた悲鳴が聞こえた。

「やだ! 来ないで!」
『止めろ!』
「佐伯先生っ! 止めて!」
「早く逃げなさい!」

 数々の叫び声のひとつに有紗は反応する。彼女は人でごった返す廊下に立ち止まって振り向いた。

(佐伯……先生……?)

 非常階段のある進行方向に向けて人の波が動くが、有紗の足は止まったまま動けない。波が引くように有紗の周りにいた人間達が進行方向に流れると、それまで人の壁で遮られていた後方の空間が開けた。

有紗のいる地点から15メートル程先の廊下にゆらりと動く人影が見えた。他には腕や脚を押さえて泣き叫ぶ女子生徒が三人、生徒の腕や脚からは血が流れていて血痕が床に点々としている。

 人影の側にいた男性教師が腹部を押さえてうずくまった。近くにいた美術教師の神田友梨が男性教師を抱き起こす。
友梨は涙を流して人影に向けて手を差し出した。

「洋介さん……お願い。もう止めて……」
『邪魔するな』

人影は容赦なく友梨の腕めがけてナイフを振り下ろし、友梨は悲鳴を上げて床に倒れた。彼女のベージュのセーターに覆われた腕が真っ赤に染まる。

「神田先生っ!」

 有紗は友梨の名を叫んでいた。その声に振り向いた人影が視界に有紗を捉えて不気味に微笑んだ。
足がすくんで動けなかった。ドクドクと音を立てて脈打つ心臓に有紗は手を当てる。


 ──“可愛い有紗。もう誰にも渡さない”──


1年前の12月のあの日。狂った笑顔でこの男は囁いた。繰り返し再生されるあの日の悪夢の残像。
忘れたいのに、忘れられないこの男の顔。
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