早河シリーズ短編集【masquerade】
※『“ ”』は英語

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6月14日(Sun)午前9時

 南京禄口《ナンキンロクコウ》国際空港のロビーには中国語と英語のアナウンスが飛び交っている。アジア、欧米、ヨーロッパ、様々な民族の男女が佐藤の目の前を通り過ぎる。

 飛行機の搭乗時間までロビーで暇をもて余していると、人混みの中でひときわ異彩を放つ男がこちらに向かって歩いてきた。男の周りにいる者達は皆、どこの国籍の人間であろうとも道を空けて男を避ける。

スキンヘッドにサングラス、黒いスーツに合わせたネクタイは今日も相変わらずの趣味の悪い派手な動物柄だった。

『“あんたが日本に帰ると聞いたからな”』
『“わざわざ見送りに来てくれたのか。日本に戻る日が今日だとよくわかったな”』
『“俺の情報網を甘くみるなよ。あんたが乗る飛行機の時間もちゃぁんと調べてある”』

 香港在住のリ・スンヨウは佐藤を見送るためだけに南京を訪れたらしい。二人はロビーの隅で会話を交える。

『“こんなに早くに戻っちまうとは残念だな。あんたとはこれからは旨い酒が飲めると思っていたんだが”』
『“キングの命令だ。仕方ない”』
『“互いに主君には逆らえないってことだな。俺のボスもあんたに会いたがっていた。本音を言えばうちに勧誘したいくらいだ”』
『“ヘッドハンティングならキングを通してくれよ”』

 リ・スンヨウとは商談の最中に酒を酌み交わした。酒が入れば年齢や立場は関係なしに自然と打ち解ける。
必要があれば彼に銃弾を放つことも想定して、ここから香港に旅立った数日前が嘘のようだ。

『“これからもカオスとチンハイの窓口は俺だ。宜しく頼む”』
『“こちらこそ。……なぁ、あんた女房はいるのか?”』

唐突な質問に佐藤は面食らった。握手をした手を離して彼は苦笑いを返す。

『“独り身だ。こんな仕事をしていたら家族は持てないさ”』
『“そうだな。独り身の方が気楽でいい。家族を持てば守るものが増える。大変なだけだ”』

 リ・スンヨウには妻子がいる。中国最大の闇組織チンハイのNo.2も家に帰れば夫であり父親なのだ。

彼はしばらく南京に滞在すると言って、佐藤の搭乗を待たずに空港を去った。他に見送りに来る者はいない。

 レイリーはあれから病院に行かせ、娼婦の仕事も佐藤がレイリーの上司と話をつけて辞めさせた。お腹の子は妊娠初期、彼女が出産を迎える時期に中国に戻れる保証はない。

帰りを待たなくていいとレイリーには告げた。待たれていたとしても彼女の元に帰ることができるのか、日本で起こるであろうこれからの展開は佐藤自身にも想像がつかない。

 それでもレイリーは産まれた子どもと一緒に佐藤の帰りを待っているだろう。もしも他の男と結婚していてくれるならその方が気が楽なのにと、それは男の勝手な言い分だ。

 愛してやれない女を置いて、愛する女を守るために母国に戻る。3年振りの帰国だ。

日本を離れたら忘れられると思っていた。
かつての婚約者の彩乃のことも、壊れるくらいに愛した美月のことも、佐藤瞬として生きていた過去も。

 何もかも、忘れられると思っていた。だけど何ひとつ忘れられずに3年が過ぎた。

 佐藤は飛行機のシートに身体を預けて目を閉じる。犯罪組織カオスの未来、現在の自分の立場、キングの計画、美月のこと……次から次へと思考が巡る。

佐藤を乗せた大きな鉄の鳥が静かに加速度を増して日本に近づいていく。彼女が……浅丘美月がいる日本に。
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