早河シリーズ短編集【masquerade】
7月7日(Tue)

 忘れたい、思い出したくもない。そんな過去の記憶ほど忘れられないものはない。
特に〈その出来事〉が起きた季節には記憶の扉はこちらの都合などお構い無しに勝手に開かれる。

 夏の空に響く虫の鳴き声。夕暮れが近付く墓地に佐藤は佇んでいた。

彼が見下ろす墓石は先祖の墓ではない。墓石に刻まれた名前は片桐家、7年前に自殺した婚約者の片桐彩乃が眠る墓だ。
彩乃の命日は7月3日。墓にはまだ新しい百合の花が生けられていた。

 7年前の6月20日。あの日にすべての人生が狂った。
6月20日の夜、佐藤と彩乃は食事の約束をしていた。しかし佐藤の仕事が忙がしく、彩乃との約束の時間には間に合いそうもなかった。

 約束の時間に遅れると彩乃に連絡すると、彼女はそれなら佐藤の自宅で夕食を用意して待っていると言った。

これが悲劇の序章だと二人はまだ気付かずに、「帰り待ってるね」と送られた彩乃からのメールを励みに佐藤は残業をこなしていた。

 事件は彩乃が佐藤の家に向かう最中に起きた。当時高校生だった竹本晴也に彩乃は襲われた。
あの日、あの時、彼女があの道を通らなければ、竹本の標的になることはなかったのかもしれない。

 もしも佐藤があの夜、仕事を早く終わらせて彩乃との約束を守っていれば、彩乃は竹本に襲われなかった。
彩乃が自殺することもなく、二人は結婚して今頃は子どもが産まれていたかもしれない。

 何度悔やんでもこの後悔は消えない。3年前にこの手で竹本を殺しても、後悔は消えやしなかった。

佐藤が一番殺したかった人間は7年前に彩乃を強姦した竹本ではなく、彩乃を守れなかった7年前の自分だった。

(彩乃。君には今の俺はどんな風に見えている?)

 彩乃のために人を殺し、彩乃以外の女を愛して死ぬに死ねなくなり、佐藤瞬の人生を捨てて闇の世界に身を投じた。
馬鹿で愚かな男だと嘲笑ってくれてかまわない。その通りなのだから。

佐藤は佐藤瞬という己自身を憎み、殺したかった。彩乃を守っていくと誓ったのに、守れなかった無力な自分を殺したかった。

 3年前に佐藤は美月によって裁かれた。
そうだ。佐藤を裁ける存在が美月ならば、佐藤を殺せる存在は彩乃だけだ。

『彩乃……。守れなくてごめんな』

 話しかけても墓石は答えてくれない。線香の煙が天に昇る。煙と共にこの想いも天に届けばいい。
奇しくも今日は七夕だ。織姫と彦星は会えただろうか?

『だから今度は守ってやりたい。お前にできなかったことを美月にはしてやりたい。彩乃は……俺が美月を守ることを許してくれるか?』

無言の墓石がじっと佐藤を見据える。
どうか今は安らかに。天の彼方でこの哀れな男の末路を見届けていて。

 父の言葉を思い出した。


 ──自分にとっての正解は自分にしかわからない──


(これが正解? わからないよ……父さん)

自分にとっての正解は自分にしかわからないのなら、選んだ答えを正解に導くしかないのだ。
< 129 / 272 >

この作品をシェア

pagetop