早河シリーズ短編集【masquerade】
莉央とのひまわり畑デートから数日経った8月の終わり。貴嶋の屋敷に呼び出された佐藤は主の部屋の扉をノックする。
主の返事の後に彼は黒色の扉を開けた。大きなデスクの向こう側の、大きなリクライニングチェアーにかける貴嶋佑聖は椅子のキャスターを動かして佐藤に顔を向けた。
『急に呼び出してすまないね』
『いえ。仕事ですか?』
頷いた貴嶋は書類を佐藤に渡す。書類は何枚かが束になりクリップで留めてあった。一番上の書類には若い男の顔写真が載っている。
『これは?』
『写真の男の名は三浦英司。ファントムの高校時代の友人……なのかな。話は聞いたことあるだろう?』
『奴が自殺するよう仕向けて殺した同級生ですよね。この男が何か?』
『10月から三浦英司に変装して明鏡大学の講師をやってくれ』
しばらく思考が追い付かなかった。
『どうして明鏡大に……。美月の通う大学ですよね?』
『昨日、大学に行って美月と会ってきた』
貴嶋はデスクに頬杖をついて佐藤を見上げる。佐藤を試している目付きだ。
貴嶋に対して何をどう言えばいいのか、混乱して上手く言葉が出ない。
『何故……』
やっと出せた言葉も小さくかすれている。口元を斜めにして笑う貴嶋は佐藤の動揺を楽しんでいた。
『君の仕事は明鏡大の講師に扮して美月の日常を私に報告すること。手筈《てはず》は整っている。変装用の三浦のマスクもファントムに造るよう頼んであるよ』
『ですから何故……俺を?』
『君は大学時代に教員免許を取ったのだろう? 潜入は慣れた者なら誰でも出来るが、教鞭《きょうべん》をとることは誰にでも出来るものではない。君が適任だ』
まだ言いたいことも聞きたいことも山ほどある。それなのに口から出るものは頼りない溜息。
貴嶋の命令は絶対だ。この男には逆らえない。彼に逆らうべき時は“今”ではない。
『……わかりました。潜入の時期は?』
『後期授業が始まる10月。君の受け持ちは美月が選択教科に選んでいる〈ギリシャ神話と人間心理学〉とやらの授業だ。授業の詳細はそこに書いてある。愉しそうな授業だよ』
やるしかないと腹をくくり、佐藤は貴嶋の部屋を辞した。廊下で莉央が待ち構えていた。
『こうなることをクイーンはわかっていたんですね』
「だから何があってもキングに従える? って聞いたでしょ?」
彼女が先に階段を降りる。佐藤も緩やかにカーブする階段を降りて階下に出た。
「これからが大変よ。“三浦先生”」
『日本に戻ってきたことを今更ながら後悔していますよ』
憮然として貴嶋から渡された書類をめくる。これから佐藤が扮する三浦英司の設定された経歴や、潜入先の明鏡大学の情報が事細かに記載されていた。
潜入開始の10月まで1ヶ月。その間に書類の内容を頭に入れなければいけない。
「私からもキングからも厄介な任務を任されて、休む暇もないわね」
莉央が玄関の扉を開けてくれた。冷房の効いた玄関ホールに一気に夏の空気が流れ込んでくる。
『そんなに愉しそうに言わないでください。あなたとキングは、本当によく似ていらっしゃいます』
「ふふっ。あなたにとってはただの潜入じゃないの。大切な宝物を見守る仕事よ。頑張って」
にこやかに片手を振る莉央に一礼して屋敷を出た。広い敷地内に巡らされた石畳の脇には莉央が世話をする夏の花達が咲いている。
ここの庭にも黄色に輝くひまわりが咲いていた。
別れと出会いを繰り返した夏の季節が今年も、もうすぐ終わる。
主の返事の後に彼は黒色の扉を開けた。大きなデスクの向こう側の、大きなリクライニングチェアーにかける貴嶋佑聖は椅子のキャスターを動かして佐藤に顔を向けた。
『急に呼び出してすまないね』
『いえ。仕事ですか?』
頷いた貴嶋は書類を佐藤に渡す。書類は何枚かが束になりクリップで留めてあった。一番上の書類には若い男の顔写真が載っている。
『これは?』
『写真の男の名は三浦英司。ファントムの高校時代の友人……なのかな。話は聞いたことあるだろう?』
『奴が自殺するよう仕向けて殺した同級生ですよね。この男が何か?』
『10月から三浦英司に変装して明鏡大学の講師をやってくれ』
しばらく思考が追い付かなかった。
『どうして明鏡大に……。美月の通う大学ですよね?』
『昨日、大学に行って美月と会ってきた』
貴嶋はデスクに頬杖をついて佐藤を見上げる。佐藤を試している目付きだ。
貴嶋に対して何をどう言えばいいのか、混乱して上手く言葉が出ない。
『何故……』
やっと出せた言葉も小さくかすれている。口元を斜めにして笑う貴嶋は佐藤の動揺を楽しんでいた。
『君の仕事は明鏡大の講師に扮して美月の日常を私に報告すること。手筈《てはず》は整っている。変装用の三浦のマスクもファントムに造るよう頼んであるよ』
『ですから何故……俺を?』
『君は大学時代に教員免許を取ったのだろう? 潜入は慣れた者なら誰でも出来るが、教鞭《きょうべん》をとることは誰にでも出来るものではない。君が適任だ』
まだ言いたいことも聞きたいことも山ほどある。それなのに口から出るものは頼りない溜息。
貴嶋の命令は絶対だ。この男には逆らえない。彼に逆らうべき時は“今”ではない。
『……わかりました。潜入の時期は?』
『後期授業が始まる10月。君の受け持ちは美月が選択教科に選んでいる〈ギリシャ神話と人間心理学〉とやらの授業だ。授業の詳細はそこに書いてある。愉しそうな授業だよ』
やるしかないと腹をくくり、佐藤は貴嶋の部屋を辞した。廊下で莉央が待ち構えていた。
『こうなることをクイーンはわかっていたんですね』
「だから何があってもキングに従える? って聞いたでしょ?」
彼女が先に階段を降りる。佐藤も緩やかにカーブする階段を降りて階下に出た。
「これからが大変よ。“三浦先生”」
『日本に戻ってきたことを今更ながら後悔していますよ』
憮然として貴嶋から渡された書類をめくる。これから佐藤が扮する三浦英司の設定された経歴や、潜入先の明鏡大学の情報が事細かに記載されていた。
潜入開始の10月まで1ヶ月。その間に書類の内容を頭に入れなければいけない。
「私からもキングからも厄介な任務を任されて、休む暇もないわね」
莉央が玄関の扉を開けてくれた。冷房の効いた玄関ホールに一気に夏の空気が流れ込んでくる。
『そんなに愉しそうに言わないでください。あなたとキングは、本当によく似ていらっしゃいます』
「ふふっ。あなたにとってはただの潜入じゃないの。大切な宝物を見守る仕事よ。頑張って」
にこやかに片手を振る莉央に一礼して屋敷を出た。広い敷地内に巡らされた石畳の脇には莉央が世話をする夏の花達が咲いている。
ここの庭にも黄色に輝くひまわりが咲いていた。
別れと出会いを繰り返した夏の季節が今年も、もうすぐ終わる。