早河シリーズ短編集【masquerade】
 2009年5月28日に浅丘美月が通う明鏡大学で発生した准教授殺人事件から、隼人と美月の運命の歯車が廻り出した。

 殺害された柴田准教授の携帯電話からは柴田と美月の男女の仲を匂わせるメールが多数あり、殺害現場には美月のリップクリームが落ちていた。

追い討ちをかけるように美月と柴田のデート写真がチェーンメールによって広まり、美月に向けられた悪意は拡散を繰り返してどんどん広がった。

 柴田と美月のメールのやりとりがハッキングによって偽装されたことやデート写真が合成であったことも警察の調べで判明したが、一度広まった悪意は簡単には消えない。

美月は騒動が治まるまで大学を休学。日に日に追い詰められて苦しむ美月に何もしてやれない無力な自分が、隼人は情けなくて歯がゆかった。

 その手紙が美月の元に届けられたのは6月最初の日曜日だった。美月と隼人にとって、忘れたくても忘れられないある男の真実が手紙には書かれていた。

美月と隼人が出会った3年前の静岡連続殺人事件の犯人であり、美月と愛し合って彼女の前から姿を消した佐藤瞬。

 手紙の差出人、アゲハは彼が組織の人間として何人もの命を奪ってきた犯罪者だと糾弾していた。

隼人は佐藤が犯罪組織の人間であることは3年前に既に知っていた。事件現場に居合わせてから親交がある上野警部から当時聞き及んでいたことだった。

 しかしあの頃の美月は佐藤を失ったショックによるASD(急性ストレス障害)を患っていた。誰もが美月に辛い思いはさせまいと、佐藤に関する情報は彼女の耳には入れないようにしていた。

 美月はこれ以上の悲しい真実を知ってはいけなかった。それなのにアゲハは容赦なく美月に悪意の刃を向ける。

 美月の心を乱す佐藤の存在によって美月と隼人の関係もぐちゃぐちゃに絡まって、縺《もつ》れた糸みたいに噛み合わない。

佐藤を想い続ける美月に苛立つ自分を責め、隼人の心は土砂降りの雨の空みたく陰鬱としていた。
そんな時だ。隼人の前に彼女が現れたのは……。

 6月13日の夜。六本木のバーのカウンター席で隼人はカクテルを呷っていた。

むしゃくしゃする心をアルコールで鎮めようとしても無駄だった。美月が苦しんでいるのに何もしてやれない無力な自分に苛ついていた。

 先ほどから、こちらをチラチラと見てくる二人組の女がいる。おそらくナンパ待ちの彼女達の熱視線も隼人の苛立ちの原因だった。

こうしてバーにいる間に何人もの女から誘いを受けた。昔の自分ならば、好みの女がいれば迷わず一夜限りの関係を結んでいた。
しかし今は違う。手当たり次第に女と遊ぶ気にはなれない。美月以外の女に興味もなかった。

(少し飲み過ぎたか……)

苛つきに任せて何杯も飲んでしまった。頭が痛い。

 隣の席に女が座った。黒のミニスカートのワンピースを着た女の年頃は隼人と同じくらい。女はバーテンにカクテルを注文した。

「浅丘美月を助けたい?」
『……は?』

他にいくらでも空いている席はあるのにわざわざ男の隣に座る、またナンパか……とうんざりしていた隼人の耳に届いた美月の名前に彼は驚いた。
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