早河シリーズ短編集【masquerade】
2013年12月13日(Fri)
私立星城大学、工学部研究棟四階の森本研究室。ここが渡辺亮の職場だ。
母校の啓徳大学の博士課程を卒業後、星城大学でポストドクターとなって迎えた2年目の冬、渡辺はある女子学生の存在に頭を悩ませていた。
「ねぇ渡辺先生ー。いいでしょぉ?」
『論文の話なら相談に乗るけど、俺が高橋さんと一緒に出掛ける必要はないと思う』
「じゃあ単刀直入に言います。私とデートしてください」
逃げるように早足で歩く渡辺を追い回すのは、森本研究室に所属する修士課程1年の高橋鈴華。よりによってこの女と廊下で鉢合わせてしまった。
今日は13日の金曜日、鉢合わせをするならジェイソンの方がまだマシだと思える。
「先生には彼女いないって噂で聞きました。彼女がいないなら、私とデートしても問題ないですよね?」
早足で歩いていた渡辺は歩く速度を緩めて溜息をつく。現在恋人がいないのは事実だが、そんな噂が流れているとは知らなかった。
『問題はある。俺はポスドク、高橋さんは学生』
「別にいいじゃないですか。私も未成年じゃないんだし、ポスドクと学生が付き合っちゃいけない規則はないですよ?」
鈴華は渡辺の腕に自分の腕を絡ませた。彼女が着ている白のタートルニットは暖かそうなのに、ミニスカートから伸びる生脚が寒々しい。
ウェーブのかかる茶髪、小柄な身体にくりっとした黒目がちの瞳は小動物を連想させて可愛らしい。
(昔の俺なら喜んで手を出していただろうな)
29歳となった渡辺に女遊びをしている余裕はない。毎日研究に明け暮れ、膨大な仕事量に睡眠時間も削られている。
女と遊ぶ時間よりも睡眠をとりたい。そう、今はとにかく性欲よりも眠気が勝っていた。
『悪いが忙しいんだ。研究や論文と関係ない話ならこれ以上は聞けない』
鈴華の腕を払って彼は研究室のノブに手をかける。彼女は口を尖らせて立ち尽くしていた。
「わかりました。でも私、先生のこと諦めません。絶対に先生を落としてみせます」
ひらりとスカートの裾を翻して廊下を駆ける鈴華を見送って、二度目の溜息をつく。溜息をつくと幸せが逃げると言うなら、この数年で自分はかなりの幸せを逃している気がする。
無人の研究室は設定温度が低めの暖房と誰かの飲みかけのコーヒー、山積みの書籍や開いたままのノートパソコン、大学時代と変わらない光景が広がっていた。
『絶対、ねぇ……』
研究室の自分のデスクに座って渡辺は鈴華の最後の言葉を呟いた。
この世に絶対なんてものはない。
もしも“絶対”が存在するとすれば、絶対に手に入れられないものがある。それは人の心だ。
人の心だけは自分の思い通りには動かせない。
いや、世の中思い通りにならないことだらけ。人はいつも何かを諦め、手放している。
私立星城大学、工学部研究棟四階の森本研究室。ここが渡辺亮の職場だ。
母校の啓徳大学の博士課程を卒業後、星城大学でポストドクターとなって迎えた2年目の冬、渡辺はある女子学生の存在に頭を悩ませていた。
「ねぇ渡辺先生ー。いいでしょぉ?」
『論文の話なら相談に乗るけど、俺が高橋さんと一緒に出掛ける必要はないと思う』
「じゃあ単刀直入に言います。私とデートしてください」
逃げるように早足で歩く渡辺を追い回すのは、森本研究室に所属する修士課程1年の高橋鈴華。よりによってこの女と廊下で鉢合わせてしまった。
今日は13日の金曜日、鉢合わせをするならジェイソンの方がまだマシだと思える。
「先生には彼女いないって噂で聞きました。彼女がいないなら、私とデートしても問題ないですよね?」
早足で歩いていた渡辺は歩く速度を緩めて溜息をつく。現在恋人がいないのは事実だが、そんな噂が流れているとは知らなかった。
『問題はある。俺はポスドク、高橋さんは学生』
「別にいいじゃないですか。私も未成年じゃないんだし、ポスドクと学生が付き合っちゃいけない規則はないですよ?」
鈴華は渡辺の腕に自分の腕を絡ませた。彼女が着ている白のタートルニットは暖かそうなのに、ミニスカートから伸びる生脚が寒々しい。
ウェーブのかかる茶髪、小柄な身体にくりっとした黒目がちの瞳は小動物を連想させて可愛らしい。
(昔の俺なら喜んで手を出していただろうな)
29歳となった渡辺に女遊びをしている余裕はない。毎日研究に明け暮れ、膨大な仕事量に睡眠時間も削られている。
女と遊ぶ時間よりも睡眠をとりたい。そう、今はとにかく性欲よりも眠気が勝っていた。
『悪いが忙しいんだ。研究や論文と関係ない話ならこれ以上は聞けない』
鈴華の腕を払って彼は研究室のノブに手をかける。彼女は口を尖らせて立ち尽くしていた。
「わかりました。でも私、先生のこと諦めません。絶対に先生を落としてみせます」
ひらりとスカートの裾を翻して廊下を駆ける鈴華を見送って、二度目の溜息をつく。溜息をつくと幸せが逃げると言うなら、この数年で自分はかなりの幸せを逃している気がする。
無人の研究室は設定温度が低めの暖房と誰かの飲みかけのコーヒー、山積みの書籍や開いたままのノートパソコン、大学時代と変わらない光景が広がっていた。
『絶対、ねぇ……』
研究室の自分のデスクに座って渡辺は鈴華の最後の言葉を呟いた。
この世に絶対なんてものはない。
もしも“絶対”が存在するとすれば、絶対に手に入れられないものがある。それは人の心だ。
人の心だけは自分の思い通りには動かせない。
いや、世の中思い通りにならないことだらけ。人はいつも何かを諦め、手放している。