早河シリーズ短編集【masquerade】
 暖房で足元が暖まってくると急激に眠気が強まった。抵抗できない眠りに誘われた夢の中には、バスケットボールを追いかける無邪気な少年がいた。

夢に現れた少年は昔の自分。無我夢中でボールを追いかけて、青春の汗を流していた彼はやがて悟る。
いつまでこのままでいられるのか、いつまでがむしゃらにコートを舞うボールを追いかけていられるのか。

 ある時を境に、少年はバスケットボールを手放した。バスケの能力だけで世の中を生きるのは難しい。
よほどの強豪チーム、そして自分の腕に自信と価値がなければプロの世界では生き残れない。

 奇しくも少年がバスケを手放した理由は、長年共にいる幼なじみの木村隼人が高校時代にサッカーを辞めた理由とよく似ていた。あの頃の隼人も自分の力の限界を悟っていた……。

 扉が開く音で渡辺はハッとして目を開ける。つい、うたた寝をして昔を懐かしむ夢を見ていた。
研究室に入ってきた准教授は渡辺の居眠りを気にも留めずに、自分のデスクで仕事を始めている。准教授を筆頭とした研究者の長所は研究以外の事柄に無関心なところかもしれない。

 午後6時、大学を出た渡辺の車が師走の暗い空の下を走る。世間はどこもかしこもクリスマス一色。

途中で立ち寄ったスーパーの入り口にはクリスマスツリーが飾られ、スーパーに隣接した洋菓子店にはクリスマスケーキ予約受付中のポスターが貼られていた。

 スーパーで惣菜を買い込んで車を走らせること数分で目黒区のマンションに到着した。
オートロックの呼び出しボタンで目的の部屋番号の呼び鈴を鳴らす。

{今開けまーす}

呼び出しに応じた声も、今では馴染みのある聞き慣れた声。オートロックの扉が開いて渡辺はエレベーターで五階に上がった。
五階の通路に着いた時には、既に彼女が扉を開けて待っていた。

 彼女は年々美しくなる。しかし穏やかで優しい笑顔は初めて会った時から変わらない。
スーパーの袋を提げて出迎えてくれた女性の部屋に入る光景は、どう見ても恋人の家に帰宅する男に見えるが、彼女は恋人ではない。

『隼人はまだ?』
「うん。帰り少し遅くなるみたい。でも麻衣子さんはもう来てるよ」

 渡辺を出迎えた女性は木村美月。渡辺の幼なじみの木村隼人の妻だ。今夜は隼人の家で食事の約束をしている。

『はい、唐揚げとコロッケと寿司と、他にも適当につまめそうなもの買ってきたよ』
「ありがとう。来てくれたのにお構いできなくてごめんね」

スーパーの袋を受け取った美月は申し訳なさそうに眉を下げた。

『いいんだよ。美月ちゃんが一番大変なんだから、飯を持ち寄るのは当然のこと』

 美月に笑顔を見せてリビングに入る。リビングにはもうひとりの幼なじみの加藤麻衣子がいた。

「よっ。久しぶり」
『ああ』

麻衣子とハイタッチを交わしてリビングの一角に置かれたベビーベッドを覗き見る。
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