早河シリーズ短編集【masquerade】
 隼人が美月と結婚したのは昨年春。そして今年の10月に斗真が生まれ、隼人は父親になった。
所帯を持ち、家族が増える。自分達もそういう年齢になったと言ってしまうのは簡単だ。

しかし毎日研究室に閉じ籠って研究に追われている渡辺からすると、結婚をして家族を持った隼人と生き方が違ってきていることに、一抹の寂しさも感じた。

 隼人のように、最愛の人と巡り会えて結ばれた先に子どもを授かる人生は正直羨ましい。けれど仕方ない。
研究の世界で生きると決めたのは自分自身だ。

 それに最愛の人ならとうに巡り会っている。他ならぬ麻衣子こそ、渡辺が幼少期から片想いしていた相手だ。

麻衣子の好きな人は隼人だった。初恋の女の子が好きな相手は親友、笑えるくらいにベタな展開だ。

 麻衣子の好きのベクトルは隼人へ、渡辺の好きのベクトルは麻衣子に、隼人のベクトルは常に麻衣子以外に向けられていた。

この一方通行トライアングルは大学時代まで続き、麻衣子が隼人への片想いに終止符を打つきっかけとなったのが、隼人が美月に本気の恋をしたからだった。

 麻衣子への気持ちにはずいぶん前から諦めがついている。そもそも告白もしていない。
麻衣子は渡辺が自分を好きだと知らないまま、幼なじみとしての友愛を渡辺に向けている。

 十代から今までもそれなりに恋人はいたが、渡辺は恋愛が面倒になっていた。教え子の高橋鈴華にどんなに迫られても、鈴華と交際を考える気にはならない。

 時間と日にちを合わせてデートの約束をして会い、食事をして会話をして、身体を重ねて男女の仲になり、メールや電話のやりとりを繰り返す……その一連の工程を、ひとりの女と交わすだけの時間的なゆとりと精神的ゆとりが、今の彼には皆無だ。

そんなことをするくらいなら研究の成果を挙げて、早くポストドクターから出世して教職の任に就きたい。

 麻衣子と談笑するうちに家主が帰宅した。玄関から美月と隼人の声が聞こえる。

「おかえりなさい」
『ただいま』

美月に対する隼人の甘い声の響きは何年経っても笑いが込み上げる。漫画ならば、隼人の語尾にいちいちハートマークがつくに違いない。

 幼なじみの隼人と麻衣子、隼人の妻の美月と息子の斗真が揃った。
美月や斗真の前では緩みきった表情を見せる隼人も、渡辺や麻衣子には飄々と澄まして軽口を叩き合う。

賑やかな笑いが漏れる木村家の平和な光景に渡辺は安らいでいた。
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