早河シリーズ短編集【masquerade】
鈴華の話を聞いた後からモヤモヤとした感覚に取り付かれた泉は一向に修論が手に付かなかった。パソコンをタイプしていても頭の中は修論の内容ではなく、渡辺亮のことばかり考えている。
温かくて広い背中、メンズ物のスパイシーな香水の匂い、熱いブラックコーヒー、煙草を咥える端正な横顔、笑った時にくしゃっとなる目元。
渡辺の部屋で目覚めた光景がいつまでも忘れられない。
院生室に居残っても修論は全くはかどらず、1日が過ぎ、2日が過ぎ、ついに泉は修論を放り出してキッチンに立った。
日付が1月10日の金曜日を迎えた午前1時。実家暮らしの泉は、築30年の古びた使い勝手の悪いキッチンでお菓子作りを始める。
就寝した両親と兄を起こさないように静かに作業を進めた。
──“小野田さんを守るために……”──
高橋鈴華に言われた言葉が胸の奥につっかえている。渡辺が泉を守るために鈴華の脅しに従おうとしたとは言い切れない。
もしかしたら別の理由があるのかもしれない。だけど結果的に泉は二度も渡辺に守られた。そして迷惑もかけた。
(これはお礼とお詫び。店員さんに作るついでに作っただけなんだから)
渡辺とダイニングバーの店員に渡すミニカップケーキが完成した。どちらも人となりをよく知らない人への贈り物だ。
卵や牛乳のアレルギーの確認もできない。もしもの時のために、女性店員には香りのきつくないリップバームをプレゼントとして購入してある。
ただのお礼とお詫び。ここまでしても理屈をこねた言い訳をして泉はベッドに入った。
寝付けない夜は朝になり、今日も修論に悩む1日が始まる。
院生室で泉と隣同士の席の朋美は今日の泉の集中力に目を見張った。
「どうしたの? 泉、今日めっちゃがんばってるじゃん」
「今日中に書けるとこまで書きたいから」
睡眠時間は3時間程度だが、泉は寝ていない方が集中できるタイプらしい。昼下がりに襲いかかる眠気もやり過ごして夕暮れ時を迎えた。
「今日は先帰るね」
「お、おう。お疲れ」
そそくさと帰り支度をして院生室を出た泉の片手には小さな紙袋があった。今朝から彼女のデスクの上にその紙袋はあり、朋美が泉のデスクにコーヒーを運んだ時に中身がちらりと見えた。
紙袋の中身は綺麗にラッピングされたカップケーキ。市販品ではなく手作りに見えた。
(さては泉の奴、私に隠してるLoveな出来事でもあるのか?)
伸ばしっぱなしで長かった泉の髪が今日は少し短くなっていた。修論で忙しい時期に美容院に行く気になったのも、きっと気合いを入れたい大事な日が近々あるからだ。
カップケーキを渡す相手について話したくなれば、そのうち泉の方から話すだろう。
デリケートな恋愛事を無理やりは詮索しない。これは女友達の暗黙の了解。
「今度は上手く行くといいな」
友人の恋愛成就を願って、朋美は修論のラストスパートに取りかかった。
温かくて広い背中、メンズ物のスパイシーな香水の匂い、熱いブラックコーヒー、煙草を咥える端正な横顔、笑った時にくしゃっとなる目元。
渡辺の部屋で目覚めた光景がいつまでも忘れられない。
院生室に居残っても修論は全くはかどらず、1日が過ぎ、2日が過ぎ、ついに泉は修論を放り出してキッチンに立った。
日付が1月10日の金曜日を迎えた午前1時。実家暮らしの泉は、築30年の古びた使い勝手の悪いキッチンでお菓子作りを始める。
就寝した両親と兄を起こさないように静かに作業を進めた。
──“小野田さんを守るために……”──
高橋鈴華に言われた言葉が胸の奥につっかえている。渡辺が泉を守るために鈴華の脅しに従おうとしたとは言い切れない。
もしかしたら別の理由があるのかもしれない。だけど結果的に泉は二度も渡辺に守られた。そして迷惑もかけた。
(これはお礼とお詫び。店員さんに作るついでに作っただけなんだから)
渡辺とダイニングバーの店員に渡すミニカップケーキが完成した。どちらも人となりをよく知らない人への贈り物だ。
卵や牛乳のアレルギーの確認もできない。もしもの時のために、女性店員には香りのきつくないリップバームをプレゼントとして購入してある。
ただのお礼とお詫び。ここまでしても理屈をこねた言い訳をして泉はベッドに入った。
寝付けない夜は朝になり、今日も修論に悩む1日が始まる。
院生室で泉と隣同士の席の朋美は今日の泉の集中力に目を見張った。
「どうしたの? 泉、今日めっちゃがんばってるじゃん」
「今日中に書けるとこまで書きたいから」
睡眠時間は3時間程度だが、泉は寝ていない方が集中できるタイプらしい。昼下がりに襲いかかる眠気もやり過ごして夕暮れ時を迎えた。
「今日は先帰るね」
「お、おう。お疲れ」
そそくさと帰り支度をして院生室を出た泉の片手には小さな紙袋があった。今朝から彼女のデスクの上にその紙袋はあり、朋美が泉のデスクにコーヒーを運んだ時に中身がちらりと見えた。
紙袋の中身は綺麗にラッピングされたカップケーキ。市販品ではなく手作りに見えた。
(さては泉の奴、私に隠してるLoveな出来事でもあるのか?)
伸ばしっぱなしで長かった泉の髪が今日は少し短くなっていた。修論で忙しい時期に美容院に行く気になったのも、きっと気合いを入れたい大事な日が近々あるからだ。
カップケーキを渡す相手について話したくなれば、そのうち泉の方から話すだろう。
デリケートな恋愛事を無理やりは詮索しない。これは女友達の暗黙の了解。
「今度は上手く行くといいな」
友人の恋愛成就を願って、朋美は修論のラストスパートに取りかかった。