早河シリーズ短編集【masquerade】
 渡辺亮は民間企業の技術開発チームとの合同研究会を終えて、16時に星城大学に戻った。今回の研究会では渡辺が携わる研究分野への収穫が多く、今日得た内容を早くパソコンに打ち込んで情報整理したかった。

 情報工学科の研究棟を目指して大学の小道を歩く渡辺は、研究棟の前を行ったり来たりしている女子学生を見つけた。

アイボリーのダッフルコートを羽織った女子学生は庭の銅像の後ろに隠れたり、研究棟の玄関の扉を開けたり閉めたりと挙動不審で、彼女の正体に気付いた渡辺は苦笑した。

『……何してんだよ。小野田泉』

銅像の後ろに身を隠していた泉が肩を跳ね上げた。まさかここで渡辺と出くわすとは思わなかった泉は、恥ずかしくて顔を上げられない。

『小野田泉さーん。だからそんな所で何しているんですか』

 渡辺は銅像の後ろに回り込み、顔を伏せる泉の耳元で叫んだ。夕焼けの赤い太陽で照らされた泉の顔は太陽と同じく真っ赤だった。

『怪しすぎ。危うく110番するとこだった。かくれんぼで遊ぶには、ここは向かないだろ』
「違います……! 渡辺先生に渡したいものがあって……。あの、今日はスーツなんですね」

渡辺のコートの中は珍しくスーツだ。ネクタイを締めた見慣れない渡辺の姿に泉はさらに顔を赤くする。

『研究会があって今まで外出してた』
「やっぱりポスドクはお忙しいですよね。……すみません。また来ます」

 このままだと多忙な渡辺の時間を奪ってしまう。カップケーキはまた作ればいい。
日を改めて、いつか、そのうち……そんな甘い言葉の羅列で臆病な泉は逃げ出そうとしている。

 泉は男に拒絶されるのを怖がっている。
元カレのダイキに自身を否定されたことでまた同じ想いをするのが怖い。

初めての彼氏の時のように、つまらないと言われて飽きられるのが怖い。ダイキのように、理系は疲れると言われるのが怖い。

『待てよ。俺に渡したいものってこれ?』

 だけど渡辺は泉を逃がさない。彼が掴んだ泉の左手には紙袋が握られている。
渡辺に掴まれた左腕が熱い。彼に触れている、触れられている。たったそれだけでどうしてこんなに熱を持つ?

「大した物じゃないです。この前のお礼と言うかお詫びと言うか……」

解放された左腕はまだ熱っぽい。彼女は袋から取り出したカップケーキを渡辺に差し出した。

「忘年会の帰りに写真を撮られていたこと高橋さんから聞きました。先生が高橋さんに脅されたことも。これはせめてものお詫びです。私のことでご迷惑をおかけしたことをどうしても謝りたくて……」

 違う。泉は本当は渡辺に会う口実が欲しかっただけ。
会いたかったから会いにきたと素直に言えずに、理屈っぽく言葉を連ねてしまうこんな性格がやはりどうしようもなく理系なのだと嫌になる。
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