早河シリーズ短編集【masquerade】
 渡辺は無言でラッピングされたカップケーキを受け取ってコートのポケットに入れた。受け取ってもらえて一応の安堵をした泉だが、彼の沈黙に不安が募る。

『……ここじゃ誰が来るかわからない。移動するぞ』

先立って来た小道を戻る渡辺を泉は追いかけた。早足で歩く渡辺についていくうちに泉は息切れしてしまう。

 着いた先は大学の駐車場。渡辺はロックを解除した運転席の扉を開いて振り向いた。
遅れて到着した泉が立ち止まって呼吸を整えている。

『乗れよ』
「はい……。失礼します」

 空の色は夕焼けと闇夜の狭間。泉を乗せた渡辺の車が大学の敷地を出て街を走る。

『高橋鈴華と会ったのか?』
「高橋さんが建築科の院生室を訪ねてきたんです。それであの写真のことを聞きました」

(小野田泉には近付くなと言ったのに。あのワガママ娘)

この件で鈴華を咎めはしないが、彼女が泉に会いに行ったのは想定外だった。

「高橋さんが写真は先生が消したと言っていましたが……」
『そうだ。俺が君をおぶってる写真は削除した。データのコピーはないと言う高橋の主張を信じるなら写真はもう存在しない』

 おぶってるとハッキリ言われて顔に熱が集まる。あの夜、泉が渡辺の背中におぶさっていたのは紛れもない事実なのだ。

「申し訳ありません。ご迷惑かけて……」
『確かに君が忘年会で泥酔さえしなければ、高橋に写真を撮られることもワガママな脅しに付き合うこともなかった。迷惑はしてる』

違う。本当は彼女にこんなことを言いたいわけじゃない。
渡辺が泉に本当に言いたいことはもっと他に……もっと大事な……。

「返す言葉もありません。私、勘違いしていませんから、安心してください」
『勘違い?』
「高橋さんが、先生は私を守るために脅迫に従った……みたいなことを言っていたんです。でも先生が私のためにしてくれたなんて都合よく考えていませんから。私もバカじゃないので、そんな勘違いはしません」

 必死で陳弁する左側にいる女は聞かれてもいないのにペラペラと喋る。

理系は理屈っぽい、疲れると彼女の元カレはそう言ったらしいが、なるほど。これが苦手な男にとっては疲れることもあるだろう。
しかしそれも苦手な男は、の場合だ。渡辺みたいにこの状況を面白く楽しんでいる男もいる。

 ──“バカになれ”──

 いつぞやの隼人に言われた通りにしてみるのも悪くない。
久しぶりに青春時代のあの頃のように、バカになって欲しいものは欲しいと手を伸ばしてみたくなった。
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