早河シリーズ短編集【masquerade】
『高橋に守りたいのは自分の保身か君かと聞かれた時から、ずっと考えていた』

 紫色が濃くなる空の下に真っ直ぐ伸びる車線。どこに行こうとも決めずに車を走らせた。

『写真を教授達に見られても俺達には何もやましいことはない。でもそれを見た教授達がどう判断するかはわからない。ポスドクと学生のふしだらな関係を疑うかもしれない。最悪のパターンでそうなった場合、俺は大学を辞めればいいと思った。だけど君はどうなる?』

信号待ち、左側の女に目を向ける。手を伸ばせばすぐに届く位置に彼女がいた。

『修論終わったか?』
「まだ……あと少し残ってます」
『そうか』

渡辺は再び前を向いた。信号が青になって車が動き出す。

『勘違いするならしろよ。勘違いでもないから』
「……でも私、先生のこと何も知りません」

 泉は高鳴り過ぎて苦しい左胸を押さえつけた。右側で渡辺がクスッと笑っている。

『俺も君のこと何も知らない。ああ……酒癖の悪さは知ってるし経験人数が二人なのも知ってる。俺の方が君の情報で知っていることは多い』

 出会いからして泉は第一印象最悪な女だった。
酔い潰れた赤い顔をふにゃっとさせて抱き付いてきたり、おぶさった背中で元カレの愚痴を語った次は道端で下ネタを叫び、タクシーではわけのわからないジャガイモ帝国の歌を歌い始める始末。

理系であることを気にしたり恋愛経験が乏しいことも気にして、口を開けば理屈ばかりこねる騒々しい女だ。

「恥ずかしい情報は忘れてください。あっ、上に乗った時は腰を前後に揺らすって高橋さんに教えてもらいました」
『高橋とどんな話をしたんだよ。ついでに言うと、男が女を抱き締めながら下から突き上げる上下運動もある』
「そうなんですかっ? そんなの元カレの二人共にしてもらったことないですよ……。私が無知過ぎたのでしょうか……」

 どうして泉と下ネタの会話をしているのだろうと渡辺は我に返るが、泉にはそのうち教えてやればいいことだ。……そのうち。

 脇道に入り、くねくねと曲がった細い道を抜けると公園があった。公園の側に車を停めて、渡辺はポケットに入れたカップケーキを取り出した。

『これ、手作り?』
「一応は……。味はたぶん大丈夫だと思います」

渡辺の指が金色のラッピングタイをほどいて袋を開ける。シンプルな卵色のミニカップケーキが二つ入っていた。ひとつ掴んで口に入れる。

「どうですか?」
『旨い』

 カップケーキをちぎって泉の口元まで運んでやる。躊躇いがちに口を開いた泉の口内にカップケーキが侵入した。
自分が作ったカップケーキを咀嚼する泉の唇に、柔らかな接触が加わる。

 言葉もなく甘いカップケーキ味のキスをして見つめ合い、またキスをする。
助手席のヘッドレストに置かれた渡辺の左手。彼の右手は泉の左手と繋がれていた。

今は理屈の言葉を並べなくてもいい。互いの気持ちが通じ合うにはそれだけで充分だった。



story7.刹那主義シンドローム END
→白昼夢 ~10years later~ に続く
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