早河シリーズ短編集【masquerade】
2009年12月22日(Tue)

 大安の午後、早河仁と香道なぎさは新宿区内藤町にある四谷区民センターを訪れた。二人が用があるのは区民センター二階の四谷特別出張所。

「はぁ。緊張する……」

クリアファイルに入る手元の書類を眺めて、なぎさは胸に手を当てた。ファイルには記入済みの婚姻届が入っている。

『書き忘れない?』
「大丈夫だと思う。でももう一度確認しよっ。ここまで来てやり直しは嫌だもんね」

 順番待ちのソファーに並んで座って二人で婚姻届の記入欄を隅から隅まで穴が空くほど確認した。
証人の欄には早河の後見人の武田健造と早河の元上司の上野恭一郎の名前がある。二人とも証人を快く引き受けてくれた。

「今日で“香道なぎさ”ともお別れかぁ」
『寂しい?』
「ちょっとだけ。25年この名前だったから……でも寂しさより嬉しい方が大きいよ」
『俺も31で自分が結婚するとは思わなかったな』

早河も笑ってなぎさも笑う。こんな日が来るとは1年前は想像もしていなかった。

「ねぇ……玲夏さんとは結婚考えたことある?」

 なぎさは婚姻届の入るファイルで半分顔を隠して、言いにくそうに口を開いた。
早河の元恋人、女優の本庄玲夏は今では早河となぎさの理解者であり大切な友人だ。でも、玲夏が早河の恋人だった過去は変えられない。

『玲夏とはアイツの仕事のこともあるし、結婚もそんな簡単にはいかないと思ってた。俺もまだ刑事だったから。でもそうだな、俺と玲夏の職業を抜きにしても玲夏との結婚は考えてなかった。俺が考えないようにしていただけで、玲夏は結婚も視野に入れていただろうから、申し訳なかったと思ってる』
「そっか」
『安心しろ。俺が結婚したいと思った女はなぎさだけだ』

 早河はなぎさの些細な不安をすぐに消し去ってくれる。だからいつも彼女は彼の隣で笑っていられた。

特別出張所で受け付けた婚姻届はファックスで新宿区役所本庁舎の戸籍係りに送られる。二人の婚姻届は不備もなく、無事に受理された。

「17時に矢野さんが来るって言ってたね」
『何の用か知らないけど17時には絶対事務所にいろって言ってたな。ゆっくり帰っても充分間に合う』

 区民センターを出たのは16時20分頃だった。

『クリスマス一緒にいてやれなくてごめんな』

 今年のクリスマスは夫婦二人で初めて過ごすクリスマスになると思っていたが、あいにく早河の仕事が立て込んでいて二人でクリスマスを過ごせそうもない。

「大丈夫。25日は麻衣子と一緒にライブに行くし、新居と新婚旅行の場所も探さないといけないから私も忙しいの」
『家も旅行も任せっきりで悪い。宿の手配はするからなぎさは行きたい所ピックアップしておいて』
「了解しましたー」

結婚式はまだ先だが、来月に新婚旅行を計画している。早河もなぎさも互いの仕事の特性上、まとまった休みが取り辛い。
結婚式でさえ日程は未定の状態だ。

「新婚旅行も行ける時がチャンスだよね。結婚してもハードなままなのが私達らしいと言うか……」
『だからたまには温泉に浸かってゆっくりしたい』
「温泉宿で探しておくね」

 新婚旅行の話で盛り上がりながら帰路を辿り、早河探偵事務所に到着した。
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