早河シリーズ短編集【masquerade】
警官が女を取り押さえるよりも前に、ナイフを振り回す女の腕を早河が掴んだ。
『止めなさい。こんなことしても何もならない』
「離して!」
もがく女の腕を早河は離さない。なぎさはナイフの刃先が早河に当たらないことを願って事態の行方を見守った。
この場を収められる人間は数々の犯罪者と対峙した経験のある元刑事の早河しかいない。
『この男は君の人生のすべてを捧げる価値のある男か?』
女の動きが止まる。早河も女性相手に手荒な真似はしたくなかった。説得で済めばそれに越したことはない。
ナイフは小田切の腕を少しかすっただけに見えた。冬場で分厚いコートを着ていたのが不幸中の幸いか、たいした怪我ではない。
それでもあの男はあんなに情けない顔をして、妻にも女にも声をかけない。
見ているだけで腹が立つ男だ。こんな男のためにこの女も、なぎさも、小田切の妻も、他にも多くの女が苦しんだのだろう。
『よく考えなさい。君がこの男を傷付ければ暴行または傷害罪……死んでしまえば殺人、死ななくても殺人未遂。こんな男のために君は法の裁きを受けて刑務所で何年も暮らすのか? 君のこれからの人生がこんな奴のために狂ってもいいのか?』
「あんたに関係ないんだからほっといてよ! 私の人生なんてどうせもう狂ってる! コイツを殺して私も死ぬの!」
泣き叫ぶ女の抵抗する力は明らかに弱くなっている。もう少しだ。
『死ぬなんて馬鹿なこと言うな。まだまだ生きられる命だろ。君が死んでもこの男が生き残ればどうなると思う? コイツは懲りずに他の女をたぶらかして、また同じことを繰り返すだろうな。君がどれだけコイツを傷付けても何も変わらない』
ナイフを握る手の力が緩む。早河が力の無くなった女の手からナイフを取り上げ、待機していた警官に渡した。
泣き崩れた女はもうひとりの警官に確保された。
『奥さん、被害届は出されますか?』
早河は小田切夫人に尋ねた。夫人は泣き崩れる女と呆然とする夫を眺めて、諦めたようにかぶりを振る。
「今のあなたの言葉で私も決心がつきました。被害届ではなく離婚届を出します。もう仮面夫婦でいるのも疲れました」
彼女は冷めた目で小田切を見下ろすと散らばった土産物の箱を拾い集める。なぎさも拾うのを手伝った。
「ありがとう。あなた、いい旦那さんを持ったわね。羨ましい」
夫人からは昨日足湯で会った時の元気は消え失せている。なぎさも小田切を愛していた頃は、彼の妻を憎らしいと思ったこともあった。
小田切にナイフを向けたあの女の気持ちも痛いほどわかる。
「彼は元刑事なんです。だからこういうことに慣れているだけですよ」
「そう……。あなたお名前は?」
「早河なぎさです」
土産物には温泉まんじゅうやかりんとう等の和菓子の箱が多くあった。おそらく職場の同僚や友人宛てに購入した、この土産物の行く末がどうなるのか気がかりだ。
「なぎささん……波打ち際の意味よね。いいお名前。荒波を泳いだご主人が心を休める場所がきっとあなたなのでしょうね。私は紗智と言うの。主人は学。私達にとっては笑っちゃうくらい皮肉な名前なのよ。私は幸せの“さち”ある人生にはならなかった。主人は何度も浮気を繰り返して、そのたびに女とトラブルを起こすのにちっとも学習しない。ね、幸《さち》のない女と学びのない男。皮肉でしょ?」
離婚を決めた夫人は夫に見向きもせずに土産物の袋を両手に提げて立ち上がった。
『止めなさい。こんなことしても何もならない』
「離して!」
もがく女の腕を早河は離さない。なぎさはナイフの刃先が早河に当たらないことを願って事態の行方を見守った。
この場を収められる人間は数々の犯罪者と対峙した経験のある元刑事の早河しかいない。
『この男は君の人生のすべてを捧げる価値のある男か?』
女の動きが止まる。早河も女性相手に手荒な真似はしたくなかった。説得で済めばそれに越したことはない。
ナイフは小田切の腕を少しかすっただけに見えた。冬場で分厚いコートを着ていたのが不幸中の幸いか、たいした怪我ではない。
それでもあの男はあんなに情けない顔をして、妻にも女にも声をかけない。
見ているだけで腹が立つ男だ。こんな男のためにこの女も、なぎさも、小田切の妻も、他にも多くの女が苦しんだのだろう。
『よく考えなさい。君がこの男を傷付ければ暴行または傷害罪……死んでしまえば殺人、死ななくても殺人未遂。こんな男のために君は法の裁きを受けて刑務所で何年も暮らすのか? 君のこれからの人生がこんな奴のために狂ってもいいのか?』
「あんたに関係ないんだからほっといてよ! 私の人生なんてどうせもう狂ってる! コイツを殺して私も死ぬの!」
泣き叫ぶ女の抵抗する力は明らかに弱くなっている。もう少しだ。
『死ぬなんて馬鹿なこと言うな。まだまだ生きられる命だろ。君が死んでもこの男が生き残ればどうなると思う? コイツは懲りずに他の女をたぶらかして、また同じことを繰り返すだろうな。君がどれだけコイツを傷付けても何も変わらない』
ナイフを握る手の力が緩む。早河が力の無くなった女の手からナイフを取り上げ、待機していた警官に渡した。
泣き崩れた女はもうひとりの警官に確保された。
『奥さん、被害届は出されますか?』
早河は小田切夫人に尋ねた。夫人は泣き崩れる女と呆然とする夫を眺めて、諦めたようにかぶりを振る。
「今のあなたの言葉で私も決心がつきました。被害届ではなく離婚届を出します。もう仮面夫婦でいるのも疲れました」
彼女は冷めた目で小田切を見下ろすと散らばった土産物の箱を拾い集める。なぎさも拾うのを手伝った。
「ありがとう。あなた、いい旦那さんを持ったわね。羨ましい」
夫人からは昨日足湯で会った時の元気は消え失せている。なぎさも小田切を愛していた頃は、彼の妻を憎らしいと思ったこともあった。
小田切にナイフを向けたあの女の気持ちも痛いほどわかる。
「彼は元刑事なんです。だからこういうことに慣れているだけですよ」
「そう……。あなたお名前は?」
「早河なぎさです」
土産物には温泉まんじゅうやかりんとう等の和菓子の箱が多くあった。おそらく職場の同僚や友人宛てに購入した、この土産物の行く末がどうなるのか気がかりだ。
「なぎささん……波打ち際の意味よね。いいお名前。荒波を泳いだご主人が心を休める場所がきっとあなたなのでしょうね。私は紗智と言うの。主人は学。私達にとっては笑っちゃうくらい皮肉な名前なのよ。私は幸せの“さち”ある人生にはならなかった。主人は何度も浮気を繰り返して、そのたびに女とトラブルを起こすのにちっとも学習しない。ね、幸《さち》のない女と学びのない男。皮肉でしょ?」
離婚を決めた夫人は夫に見向きもせずに土産物の袋を両手に提げて立ち上がった。