早河シリーズ短編集【masquerade】
 被害届は出さないと言ったが、騒ぎを起こした女は気を落ち着かせるために派出所に連れて行かれた。

小田切も駆けつけた救急隊員によって治療を施されている。ナイフで切られた腕を押さえて子どもみたいに泣きべそをかく小田切は、なぎさから見ても情けなく映る。
あんな情けない男のどこに惚れていたのか今となっては迷宮入りだ。

 小田切夫人はロビーのソファーに腰を降ろした。なぎさと早河も同席する。
仲居が振る舞ってくれた温かい緑茶を飲んで三人は一息ついた。

「あの人もちょっとナイフが当たっただけのかすり傷なのに大袈裟ね。でもかすり傷で済んだのも、あなたのおかげですね。ありがとうございます」

夫人が早河に頭を下げた。最初のお喋り好きな印象が薄れるほど今の彼女は凛とした強い女性に見えた。

『職業柄のようなものです。奥様にお怪我がなくて安心しました』
「ありがとう。あの子……主人の浮気相手の子はどうなりますの?」
『ご主人への切りつけについては傷害罪に該当しますが、被害届を出されないのなら今回は逮捕はなく、微罪《びざい》処分という形で釈放されると思います。幸いご主人の怪我も軽症ですし、彼女は最後は自分でナイフを手離しました。反省の色も見えましたからその辺りが考慮されるでしょう。ナイフの所持は銃刀法違反になりますので、初犯であれば書類送検が妥当かと』

早河の説明に夫人は頷き、両手で緑茶の湯呑みを持ち上げた。

「被害届については主人が何を言っても私の方で出さないと決めています。あれは自業自得。あなたがいて、あの子を止めてくださったから殺されなかっただけだもの」

夫人は購入した土産物の和菓子の包みを開けて中身に手をつけた。やけ食いしたい気分のようだ。

 警官が早河に事情を尋ねにきた。早河はその場を辞して警官と共にロビーの隅に移動する。
ソファーには夫人となぎさだけになった。

「あなた達はお子さんは?」

 子どもの件は早河と昨夜話をしたばかりだ。初めて早河に心の奥に潜む本音を打ち明け、受け止めてくれた彼と心も身体も本当にひとつになった。

昨夜のとろけるような特別な情事を思い出したなぎさは頬を染めた。

「私達はまだ……。いずれとは思っていますけど……」
「子どものことは夫婦でよく話し合って決めなさいね。うちには子どもがいないの。私達には子どもが出来なかった。結婚したばかりの頃は早く欲しくてたまらなかったわ。私が子どもが出来にくい体質だとわかってからは、養子をもらうことも考えた。だけど今思えば、子どもがいないことが幸いだったのかもしれない。お菓子、どうぞ遠慮しないで食べてね」

夫人にすすめられてなぎさは和菓子の箱からまんじゅうをひとつ貰った。
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