早河シリーズ短編集【masquerade】
 人間は誰しも毎日が生きるか死ぬかの瀬戸際に立っている。

 分かれ道のあちら側を選べば事故に遭わなかった、1本早い電車に乗れば、5分早く家を出れば……言い出せばキリがないほど、あちら側を選べばもっと違う人生だったのかもしれないと思うことがある。

そしてそれは生と死の紙一重の選択でもあるのだが、そんなことを日々意識して生きている人間は少ない。

 いや、きっと自分の周りが世間一般から少しズレて風変わりなだけだ。毎日が生きるか死ぬかの繰り返し。

不夜城の世界に生きる道化師は今日も裏と表の顔を使い分けて生きている。


         *

2010年3月17日(Wed)午後11時

 大都会の夜は長い。夜は夜でも場所によって様々な夜の顔がある。
夜景に彩られた煌びやかな夜、シャンパンの泡とシャンデリア、暗闇の高架下、ひとりで飲むワイン、路地裏に潜む野良猫、暖かい布団で眠る子どもの寝顔。

東京には様々な顔の“夜”が存在する。

 煌びやかな夜景やシャンパンの泡とも違う、暗闇の高架下に近い夜に矢野一輝は溶け込んでいた。

酒場で盛り上がるポーカーやルーレット、クラップス、隣にいる体格のいい黒人が話す片言の日本語はイントネーションの具合が少々気になる。
聞こえるだけでも日本語、英語、中国語、聞き慣れない言語もいくつか耳にした。

 矢野はポーカーの戦線から離脱して席を立つ。酒の入るグラスに口をつけながら店の片隅にいるディーラーの側に寄った。
ディーラーの名前は高木涼馬。矢野とは中学時代からの付き合いだ。

『三浦英司《みうら えいじ》の情報はやっぱりないに等しいな。これだけ調べ回っても奴の尻尾の切れ端すらねぇよ』
『一輝でもネタが掴めないって相当だな。三浦に似た男が去年よくここに現れてたって噂だけど』

高木はゲームに使うダイスを手のひらで転がして弄ぶ。矢野はグラスをカウンターに置いて煙草を咥えた。

『カオスが壊滅してからのこの3ヶ月間の渡航記録にも三浦の名前はなかった。奴がまだ日本にいるとも思えないし、別人名義のパスポートでどっかに飛んだのかも』
『早河さんは何て言ってるんだ? あの人も三浦を追えって?』
『早河さんも三浦の件は気にしてる。でもこれは俺の単なる興味、知的好奇心ってヤツだ』

 ちぐはぐなイントネーションで話す黒人の声が騒々しい店内で妙に大きく聞こえる。
横で高木が笑っていた。シャツに黒のベストと蝶ネクタイ、ディーラー姿もなかなか様になっている。

『好奇心のためなら危ない橋も渡りまくる。一輝のそういうとこ、昔から変わらねぇな。高2のあの時も今とおんなじ顔してた』
『高2……ああ、あの時か』

バイブレーションにした携帯電話が鳴る。ちらりと画面の表示を見た矢野は紫煙を吐いて溜息をついた。

『どうした?』
『女王蜂からのお呼び出し』

それだけで高木には“女王蜂”が誰のことを指しているかわかった。矢野がこんなにも憂鬱な表情を見せる女王蜂とは高木も面識がある。

『ここから銀座まで瞬間移動しろって? あの人も相変わらずドSだな』
『それがあの女王蜂だからな。行ってくる』

 店の外に出て地上に続く階段を上がる。都会の澱んだ空気も地下の穴蔵から抜け出してきた今の自分には清々しい空気に感じられた。

店を出た先の路地には野良猫がうずくまって寝息を立てている。
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