早河シリーズ短編集【masquerade】
 3月になっても夜はまだ肌寒い。コートのポケットに両手を入れて、矢野はビルとビルに挟まれた狭く黒い空を見上げた。

いつまでこんなことを続けるのだろう。
突如として心に宿った感情は一気に膨らんでいく。
そう、いつまで? 一体自分は何のために……。

 背後に人の気配を感じて矢野はとっさに受け身をとる。矢野の動きに驚いた野良猫が目を覚まして唸り声を出した。

『やっぱりね。俺が店を出れば追ってくると思ってた』

薄汚れたコンクリートの地面に片手をついた矢野は低くした腰を上げた。彼の視線の先には、ポーカーの席で隣にいた片言の日本語を話す黒人男性の姿がある。

『ナゼ、ミウラ、ヲ、シラベテ、イル?』
『さぁな。あんたには関係ない』

 矢野と男の体格差は歴然。上背も横幅も矢野の倍はある。まともに戦って勝機のある相手ではないことは確かだった。

『あんた三浦のこと知ってるのか?』
『ミウラ、ニ、カカワルナ、シヌゾ』

男が拳の骨を鳴らす。矢野は口笛を吹いて不敵に微笑んだ。

『それは知ってると白状してるようなものだ。悪いが今はあんたとゆっくり話している時間はない』

男が仕掛けてきて攻撃を軽々避け、みぞおちめがけてキックを入れる。怯んだ男の両手を加勢した高木が捻り上げた。

『後は任せろ』
『涼馬ナイスタイミング。そいつには後で詳しく話聞きたいから縛ってどっかに拘束しておいて』

 路地裏で寝ていた野良猫はすでにいなかった。後処理を高木に任せて矢野は足早に大通りに出てタクシーを拾った。

(“三浦に関わるな、死ぬぞ”……か)

銀座に向けて走り出したタクシーの中で黒人の男に言われた言葉を反芻する。

 三浦英司は犯罪組織カオスの上層部にいたと思われている男だ。彼の名前はカオスに関係した逮捕者の中にも幹部リストにもなく、カオス壊滅後の消息は不明。

三浦は佐藤瞬の整形した姿の説も浮上したが、三浦のDNAと佐藤のDNAデータは不一致だった。

(ここまで探っても手掛かりが何もない三浦英司……何者なんだ)

 矢野は銀座八丁目の並木通りでタクシーを降りた。数分歩くと目的の建物が目の前に見える。

灰色のレンガ造りの外観に控えめに当てられた照明が照らすmerciの文字。華美な装飾が一切ないことが、此処が本物である証だ。
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