早河シリーズ短編集【masquerade】
 矢野は一番上のみかんをひとつとって上に向けて投げた。

『間違いではないだろ。現にお前はあそこの事務員だ』
『肩書きとしての本職はね。でもやっぱり情報屋のことは恋人の親には話せないものだね。早河さんは、なぎさちゃんの親が探偵の仕事をほとんど理解してるからまだいいのかもしれない』

上に投げたみかんをキャッチして皮を剥く。早河は相変わらず片手間に矢野の話に耳を傾けていた。

『俺もなぎさの親に仕事の詳細すべてを話すことはないぞ。なぎさも俺の仕事内容を全部把握しているわけじゃない。小山もお前の情報屋としての仕事のすべては知らないんじゃないか?』
『知らないねぇ。そこは真紀には見せない顔ってヤツ』

 口内に広がる瑞々《みずみず》しく甘酸っぱいみかんの味。年末は真紀と一緒には過ごせなかったが正月は真紀の家でこたつを囲んでみかんを食べた。

スーパーで安売りしているただのみかんを、あんなに美味しいと感じたのは初めてだ。あれが普通の幸せの味だ。

『夫婦になったって互いに見せない顔はある。それが相手の親なら尚更な。お前達が小山の親に情報屋の仕事を話さなかったのは、変に勘ぐられたり心配させるのが嫌だったからだろ?』
『ああ。それよりもお母さんと妹さんは俺の伯父が財務大臣ってところに驚いてた。情報屋って言うよりは事務員の方が手堅い仕事と思われて印象はよかったよ。結婚も認めてくれたしこれでいいって思ってはいる』

みかんの最後のひとつを口に入れた。早河が隣に座り、彼もみかんの皮を剥いていた。

『みかんには合わねぇけどコーヒー飲む?』
『飲む』

 早河の注文を受けて矢野はコーヒーの準備を始める。かつて贔屓にしていた珈琲専門店Edenはもうない。

Edenの豆ではないコーヒーの味に慣れてきても、その慣れもどこか寂しいものだ。

『子どもが生まれたら早河さんなら子どもに自分の仕事どうやって説明する?』
『探偵』
『それだけ?』

早河の手元にあるみかんの香りとコーヒーの香りが同時に部屋に漂っていた。矢野は二人分のコーヒーを淹れてソファーに戻る。

『今の俺の仕事は探偵だ。それ以上でも以下でもない』
『早河さんはそういうとこ、昔からはっきりさっぱりしていて羨ましいよ』
『お前は意外と悩みやすいからな』
『こう見えて繊細なんですよー』

 長い付き合いだからこそ、互いに多くを語らない。矢野が何を思い、何に悩んでいるのか早河も理解していた。

『情報屋を辞めるにしても続けるにしても、お前の自由だ。好きにすればいい』

早河の言葉に頷いた矢野は、自分で淹れた熱くて濃いコーヒーに口をつけた。
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