愛すべきマリア
「そろそろ休むか」

 そう言って立ち上がったのはアラバスだ。

「勝ち逃げならまだしも、負け逃げとは怪しからん奴だ」

 挑発するようなアレンの言葉など気にせず、アラバスがニヤッと笑う。

「バックギャモンかチェスなら全勝する自信があるからな」

 アレンが肩を竦めてトーマスを見た。

「マリアが待っているのだろう? 早く行けよ」

 その言葉に返事をせず、アラバスはトーマスの肩をポンと叩いてゲーム室を出て行った。

「ありがとうな、アレン。引き止めていてくれたんだろう?」

「いや、あまり力にはなれなかったな。どうだ? このあとお前の部屋でもう少し飲まないか? 側近用の宿泊部屋を貰ったのだろう?」

「ああ、今日から隣どうしだ。改めてよろしく頼むよ」

「寝に帰るだけの部屋だがなかなか快適だぞ。王族の居住区にも近いしな。無駄に大きな机と本棚があるんだ。要するに寝ている以外は働けってことだな」

「ああ、なるほど」

 二人は肩を組むようにしてゲーム室を後にした。
 その後姿が角を曲がるのを確認したメイドが、ゲーム室へと消える。
 テーブルの真ん中に集められたカードには目もくれず、サイドテーブルに置かれた飲み残しのワインの瓶を手に取った。

「やっぱり残してる。勿体ないねぇ」

 メイドはポケットからサラサラした白い粉を包んだ紙を取り出し、そのボトルに入れて軽く振った。
 棚から新しいワイングラスを二つ出し、そのワインボトルと一緒にトレイに載せる。
 静かに部屋を出ると、素知らぬ顔で王族の居住区へと向かった。

「誰だ?」

 居住スペース入口を守っている騎士がメイドに声を掛ける。

「先ほどまで第一王子殿下とご一緒なさっていた側近の方から、飲み残したワインを届けるように申し付かって参りました」

「飲み残しの? 新しいのではなくて?」

「はい、殿下がいたくこのワインをお気に召したとのことで、後でこのまま届けるようにと指示をされたとのことでございます」

 騎士がそのラベルを見て、国王がとっておきだと言っていたものだと気づいた。

「なるほど、そういうことか。今日のパーティーに出されたものだな。通りなさい」

「はい、ありがとうございます」

 女は軽く頭を下げて居住区へと入っていった。
 ゆっくりとした足取りで渡り廊下を進み、迷うことなく第一王子宮へと向かう。
 王城と居住区を結ぶこの渡り廊下の両側に植えられた木々が、心地よい風に揺らいでいた。
 門番から見えない位置まで来ると、ひゅっと鋭く口笛を吹く。 
 その木陰から出てきたのは、夕刻前には帰ったはずのレイラ・クランプ公爵令嬢だった。

「うまくいったのね」

「はい、ご指示通りに仕込んでおります」

「ではこのままよろしくね」

「畏まりました」

 メイドを見送ったレイラは、いったん木陰に戻り王子宮の二階の窓へと視線を向ける。
 その頃、新婚夫婦の寝室に入ったアラバスは、意味不明なほど厚手のガウンを着せられたマリアを膝に乗せていた。

「今日は疲れただろう? もう寝るか?」

「ここでねんねするの? アシュは?」

「マリアは自分の部屋で寝なさい。怖いなら内扉を開けておけばいい。俺はここで寝るから、何かあればすぐに助けに行ける」

 その言葉に安心したマリアが、頭をアラバスの首筋に預ける。

「アシュは良い匂いねぇ。森の匂い」

「マリアの方が良い匂いだ。花の匂いがする」

 長年の婚約者であるマリアと結婚したという現実が、アラバスを高揚させる。
 見た目だけなら花の十七歳の乙女なのだ。
 トーマスとの約束を忘れて、手を伸ばしそうになる己を必死で律しつつ、おやすみのキスだけなら良いだろうかなどと考えていた時、思いがけず寝室のドアをノックする音がした。

「誰だ」

「アレン様よりワインを持っていくようにとのことでございます」

 優しい手つきでマリアをソファーに降ろしたアラバスがドアを開けた。

「アレンだと?」

「はい、せっかくのワインを残しては勿体ないので、寝酒にされてはいかがかとのお言葉でした」

 一瞬眉をひそめたアラバスだったが、ワインのラベルを見て納得した。

「ああ、せっかく父上が下さったワインだものな。確かに残しては勿体ない」

 頭を下げながらメイドがトレイをテーブルに置いた。
 マリアはニコニコしながら大人しく座っている。
< 29 / 80 >

この作品をシェア

pagetop