愛すべきマリア
 時は遡り、カーチスが学園でラランジェと昼食をとっていた頃、いつものように授業にやって来たラングレー公爵夫人がマリアと話をしていた。

「マリアちゃん、あなたは名実ともに第一王子殿下の妻となったの。だからね、お勉強の内容も少し難しくしていこうと思うのよ。どうかしら?」

「難しく? マリアにできる?」

「できるように頑張るの。先生と一緒にがんばろっか」

「うん、良いよ」

「では今日から文字の勉強を始めましょう。文字を読めたり書けたりできるようになると、いろいろと楽しいことができるようになるわ」

「うん、頑張るね」

 頷いたラングレー公爵夫人が侍女に持たせていた鞄から絵本を取り出した。

「素敵な絵でしょう? まずはこれを読めるようになりましょうね」

 神妙な顔で机の前に座ったマリアの前で絵本を広げた。
 しばし無言でパラパラとページを捲っていたマリアが、不思議そうな顔で夫人を見る。

「終わった~。森の平和は保たれたって神様が喜んだねぇ。よかったよかった」

「えっ! マリアちゃん……読んだの?」

「うん、読んだよ。マリア偉い?」

「ええ……え、偉いわ……じゃあこれは?」

 夫人が次に取り出したのは、貴族学園初等部の教科書に採用されている短文集だった。

「うん、読めるよ。先生も読んだ?」

「ずっと昔に読んだわ……では、これはどう?」

 マリアが自習している間に自分が読もうと思っていた小説を慌てて取り出した。
 ページを捲りながら読み進めるマリア。

「ねえ、先生。わからない言葉があったわ」

「どこかしら?」

 公爵夫人が少しだけ安心したような顔で、マリアが広げている本を覗き込んだ。

「ここよ。この『妻である私にひとり寝をさせておいて、夫のあなたはあんな女を抱いていたなんて……信じられない裏切りだわ! この屈辱は絶対に忘れないから!』ってどういう意味なの?」

「あ……それは……マリアちゃんにはちょっと早い……かな?」

 侍女長を始めとする使用人たちが、笑いを嚙み殺しながら俯いた。

「ひとり寝? マリアはひとりでねんねできたら褒めてもらえるのに、この人は怒るの? なぜ? 夫があんな女を抱いたから? あんなってどんな? マリアわかんなぁい」

「そうね……難しい問題よね。あ……ああそうよ、そうだわ。ねえマリアちゃん、マリアちゃんはワンダリア王国の文字は習得済みってことよね? 他の国の文字は? 書けたり読めたりできるのかな? もしかして話せたりできる?」

「う~ん……わかんない。他の国ってどこ?」

 あたふたする公爵夫人に、侍女長が小声で助け舟を出した。

「少しずつ記憶が戻っているのかもしれません。図書室にお連れしてみてはいかがでしょうか。文字が読める件は、私から王妃陛下にご報告しておきますので」

「そうね、それが良さそうだわ」

 気を取り直したラングレー公爵夫人は、にっこりとマリアに話しかけた。

「ねえ、マリアちゃん。今日は図書室に行ってみましょうよ。マリアちゃんがどれくらい字が読めるか先生に教えてちょうだい」

「いいよぉ。おてて繋いでくれる?」

「もちろんよ。さあ、行きましょう」

 二人は侍女たちを引き連れて、王子宮の図書室へと向かっていった。
 そして夕刻、侍女長から報告を受けた王妃は、執務で駆け付けられなかったことを悔やみつつ、ラングレー公爵夫人の訪問を今か今かと待ち受けていた。

「失礼いたします、王妃陛下。とても美しい夕暮れでございます」

 優雅に挨拶をするラングレー公爵夫人を、腰を浮かせて手招きする王妃。

「どうだったの?」

「驚きましたわ。マリアちゃんはすでに近隣四か国の言語をマスターしておられます。それに帝国語なんてネイティブでしたわ。これはマリア嬢が習得されていたのと同レベルでしょう」

「言葉は忘れてなかったってこと? 単語の意味とかも理解しているのかしら」

「残念ながらわかる単語とわからない単語があるようです。語彙力という意味では幼児です」

「そう……まあ、そう上手くはいかないわよね」

「文字という認識がなかったみたいですわね。模様だと思っていたようで、読むという考えには至らなかったのだと思います。それが字だと認識できたら一気に解放されたというのが、一番近い表現かと」

「なるほどね。文字という概念が無かったのなら納得だわ」

「それにしても陛下、マリア嬢の頭脳は素晴らしいですわ。一度教えたら忘れないのです。スッと簡単に覚えてしまうのですわ。まるで乾ききった砂浜に水を撒くように染み込んでいくとでも申しましょうか。マナーもダンスも頭では理解なさっています。ただ、運動能力が追いついていないだけなのだと、今日のことでよくわかりました」

 王妃が神妙な顔で深く頷いた。

「凄いわね。っていうか、マリア嬢ってそこまでの頭脳だったってこと?」

「彼女は奥ゆかしい令嬢でしたから、ひけらかすような事をなさらなかったのでしょうね」

「そうよね。彼女は本当に理想的な次期王妃だったもの」

 二人は溜息を吐きながら、紅茶のカップに手を伸ばした。

「マリアちゃんはどこへ?」

「自室にお帰りになりましたわ。お別れの挨拶もきちんとなさって大変ご立派でした」

「もうカーテシーでコケたりしなくなったってこと? 子供の成長は早いわねぇ。 マナーとダンスは理解より反復練習だと言われているけれど、彼女の場合は逆になるのね」

「ええ、本当に。だからこそ運動能力が追いつけば、恐ろしいほど成長が早いと思います」

 王妃がクスッと笑った。

「お互いに娘を持てなかったでしょ? マリアちゃんには本当に癒してもらっているわ。だから、あまり早く大人になってほしくないって気持ちもあるの。アラバスには悪いけど」

「わかりますわ。男の子が可愛いのは四歳までですもの。懐かしいわ」

「本当に懐かしいわね」

 元クラスメイトの二人が、昔を思い出して笑い合っていた頃、暇を持て余したマリアは、アラバスの執務室に突撃していた。
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