愛すべきマリア
8
「アシュ~ 遊んで~」
バンッと開かれたドアの音に、アラバスの肩がビクッと跳ねた。
「マリアか……いつも言うように、パタパタと走ってはダメだ。それに、入る時にはきちんとノックをするんだ。勉強は終わったのか?」
「うん、終わったよ。だから遊ぼ?」
アレンとトーマスがニヤついた顔でアラバスを見た。
コホンと咳をひとつしたアラバスが、マリアの顔を見て優しい声を出す。
「ちょっとそこで待っていてくれ。すぐに終わらせるから」
気を利かせた文官が、マリアのココアとお菓子を準備するために部屋を出た。
厨房への階段を降りる時、ふと廊下の角に人影を見たような気がしたが、丁度階下から声を掛けられ、そのまま深く考えずに急いだ。
机上を片づけたアラバスが、アレンとトーマスにも終わるように告げてソファーに座った。
マリアは手持無沙汰なのか、本棚に並んでいる分厚い本の背表紙を眺めている。
「今日は何を習ったんだ?」
くるっと振り向いたマリアが、ニコッと笑ってから大きな声で言い放つ。
「妻である私にひとり寝をさせておいて、夫のあなたはあんな女を抱いていたなんて……信じられない裏切りだわ! この屈辱は絶対に忘れないから!」
アラバスが慌てて立ち上がる。
「おい! マリア!」
啞然とするアラバスなど置き去りに、マリアが可愛らしく小首を傾げた。
「ねえ、アシュ? あんな女ってどんな女?」
「はぁぁぁぁぁ……いったい誰にそんなことを吹きこまれた?」
「先生が持ってたご本だよ?」
「えぇぇぇぇ! うちの母親?」
アレンが慌てて立ち上がった。
「うん、先生のご本に書いてあったの」
「なんてものを読ませてるんだよ……まったく」
「いや、ちょっと待て。なあ、マリア。お前は文字が読めるのか?」
真剣な顔でソファーに移動してきたのはトーマスだ。
きゅるんとした無邪気な目でマリアが答える。
「うん、読めた」
「いつから?」
小首をかしげるマリア。
「う~ん……わかんない」
三人が顔を見合わせていた時、厨房に行っていた文官が、ワゴンを押して戻ってきた。
「わ~い! お菓子だぁ! お・か・し! イェイ! お・か・し! イェイ!」
マリアが両手を何度も突き上げて、奇妙なステップの舞を披露している。
「お客様でしたか?」
文官の問いに答えたのはアレンだ。
「いや、誰も来ていないぞ?」
「では見間違いでしょうか。後姿がクランプ公爵令嬢のように見えたのですが」
「レイラ嬢? どこにいた?」
「私が階段から上がった時には、すでに後姿でしたが、この部屋ではなかったのですね。ではどこかな……この先には衛兵がいるから入れないはずでしょう?」
「ああ、この先は王族の居住区だからな……立ち聞きか? まったく行儀の悪い狐だな」
お菓子を食べる前の儀式を終えたマリアは、何の迷いもなくアラバスの膝にポスッとおさまった。
「ねえ、食べてもいい?」
「ああいいぞ。でももうすぐ夕食だから、二つだけだ」
「アシュのケチ!」
すでに両手に一つずつチョコチップクッキーとブラウニーを持っているマリアが、盛大に頬を膨らませた。
それをしれっと受け流したアラバスが、文官たちを見て頷いた。
「もう今日は終わろう。ご苦労だった」
アラバスの声に、文官たちが立ち上がる。
朝から剣吞な雰囲気の中で頑張った者たちに、側近二人は労いの言葉を掛けて送り出した。 アラバスは膝の上でちまちまとお菓子を食べているマリアに話しかけている。
「なあ、マリア。文字が読めるってワンダリア王国の文字だけか?」
もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ
「マリア? お返事は?」
もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ
片眉をあげたトーマスがため息混じりに言う。
「ああ、この癖は……」
そう言いながら、トーマスが皿に盛られたクッキーをひとつつまんだ。
「マリア、お返事ができたらお兄さまのを一つあげようね」
マリアの目がキランと光った。
もぐもぐもぐもぐ ごっくん
「違うよ。図書室のご本は読めたの。でも読めないのもあったの」
言い終わるとすぐに、チョコレートでべとべとになった手でアラバスの頬に触れる。
アレンは『あっ、拭いた』と思ったが、何も言わずに目を逸らした。
「なんだよ、癖って」
頬の変化に気づいていないアラバスがトーマスに聞いた。
「二歳か三歳の頃なのだけれど、お菓子が少ないって拗ねちゃってさぁ。もう口の中に無いのにずっと食べているふりをするんだよ。その時からの癖さ。僕が自分のを分けてやると機嫌が直るんだ」
「ガキか」
アラバスの吐き出した言葉にアレンが重ねる。
「三歳児なんだから間違いなくガキだろ」
「ああ……そうか」
「違うよ? マリアはもうすぐ四歳になるんだよ? カチスと一緒なの。お体も大人だよ」
「それは十分に知っている」
そう呟いたアラバスをジトっと睨むトーマス。
空気を換えようと、アレンがクッキーをもう一つマリアに渡した。
見惚れるほどの笑顔でそれを受け取るマリア。
アレンの頬が少し赤く染まった。
「それより、狐は何を立ち聞きしたんだ?」
「仕事の話はしてなかったが、マリアが来てすぐだよな……あっ!」
トーマスが大きな声を出した。
「あの時マリアが……」
「あっ!」
思い当たったアラバスとアレンも叫ぶ。
「俺が不貞男になってしまったじゃないか!」
二人の側近は盛大に吹き出した。
物凄く嫌そうな顔をするアラバスにマリアが聞く。
「アシュ? ふていってなあに?」
呆然とするアラバスと、ニコニコするマリア、そして涙を流して笑い転げるアレンとトーマス……まさにカオス。
バンッと開かれたドアの音に、アラバスの肩がビクッと跳ねた。
「マリアか……いつも言うように、パタパタと走ってはダメだ。それに、入る時にはきちんとノックをするんだ。勉強は終わったのか?」
「うん、終わったよ。だから遊ぼ?」
アレンとトーマスがニヤついた顔でアラバスを見た。
コホンと咳をひとつしたアラバスが、マリアの顔を見て優しい声を出す。
「ちょっとそこで待っていてくれ。すぐに終わらせるから」
気を利かせた文官が、マリアのココアとお菓子を準備するために部屋を出た。
厨房への階段を降りる時、ふと廊下の角に人影を見たような気がしたが、丁度階下から声を掛けられ、そのまま深く考えずに急いだ。
机上を片づけたアラバスが、アレンとトーマスにも終わるように告げてソファーに座った。
マリアは手持無沙汰なのか、本棚に並んでいる分厚い本の背表紙を眺めている。
「今日は何を習ったんだ?」
くるっと振り向いたマリアが、ニコッと笑ってから大きな声で言い放つ。
「妻である私にひとり寝をさせておいて、夫のあなたはあんな女を抱いていたなんて……信じられない裏切りだわ! この屈辱は絶対に忘れないから!」
アラバスが慌てて立ち上がる。
「おい! マリア!」
啞然とするアラバスなど置き去りに、マリアが可愛らしく小首を傾げた。
「ねえ、アシュ? あんな女ってどんな女?」
「はぁぁぁぁぁ……いったい誰にそんなことを吹きこまれた?」
「先生が持ってたご本だよ?」
「えぇぇぇぇ! うちの母親?」
アレンが慌てて立ち上がった。
「うん、先生のご本に書いてあったの」
「なんてものを読ませてるんだよ……まったく」
「いや、ちょっと待て。なあ、マリア。お前は文字が読めるのか?」
真剣な顔でソファーに移動してきたのはトーマスだ。
きゅるんとした無邪気な目でマリアが答える。
「うん、読めた」
「いつから?」
小首をかしげるマリア。
「う~ん……わかんない」
三人が顔を見合わせていた時、厨房に行っていた文官が、ワゴンを押して戻ってきた。
「わ~い! お菓子だぁ! お・か・し! イェイ! お・か・し! イェイ!」
マリアが両手を何度も突き上げて、奇妙なステップの舞を披露している。
「お客様でしたか?」
文官の問いに答えたのはアレンだ。
「いや、誰も来ていないぞ?」
「では見間違いでしょうか。後姿がクランプ公爵令嬢のように見えたのですが」
「レイラ嬢? どこにいた?」
「私が階段から上がった時には、すでに後姿でしたが、この部屋ではなかったのですね。ではどこかな……この先には衛兵がいるから入れないはずでしょう?」
「ああ、この先は王族の居住区だからな……立ち聞きか? まったく行儀の悪い狐だな」
お菓子を食べる前の儀式を終えたマリアは、何の迷いもなくアラバスの膝にポスッとおさまった。
「ねえ、食べてもいい?」
「ああいいぞ。でももうすぐ夕食だから、二つだけだ」
「アシュのケチ!」
すでに両手に一つずつチョコチップクッキーとブラウニーを持っているマリアが、盛大に頬を膨らませた。
それをしれっと受け流したアラバスが、文官たちを見て頷いた。
「もう今日は終わろう。ご苦労だった」
アラバスの声に、文官たちが立ち上がる。
朝から剣吞な雰囲気の中で頑張った者たちに、側近二人は労いの言葉を掛けて送り出した。 アラバスは膝の上でちまちまとお菓子を食べているマリアに話しかけている。
「なあ、マリア。文字が読めるってワンダリア王国の文字だけか?」
もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ
「マリア? お返事は?」
もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ
片眉をあげたトーマスがため息混じりに言う。
「ああ、この癖は……」
そう言いながら、トーマスが皿に盛られたクッキーをひとつつまんだ。
「マリア、お返事ができたらお兄さまのを一つあげようね」
マリアの目がキランと光った。
もぐもぐもぐもぐ ごっくん
「違うよ。図書室のご本は読めたの。でも読めないのもあったの」
言い終わるとすぐに、チョコレートでべとべとになった手でアラバスの頬に触れる。
アレンは『あっ、拭いた』と思ったが、何も言わずに目を逸らした。
「なんだよ、癖って」
頬の変化に気づいていないアラバスがトーマスに聞いた。
「二歳か三歳の頃なのだけれど、お菓子が少ないって拗ねちゃってさぁ。もう口の中に無いのにずっと食べているふりをするんだよ。その時からの癖さ。僕が自分のを分けてやると機嫌が直るんだ」
「ガキか」
アラバスの吐き出した言葉にアレンが重ねる。
「三歳児なんだから間違いなくガキだろ」
「ああ……そうか」
「違うよ? マリアはもうすぐ四歳になるんだよ? カチスと一緒なの。お体も大人だよ」
「それは十分に知っている」
そう呟いたアラバスをジトっと睨むトーマス。
空気を換えようと、アレンがクッキーをもう一つマリアに渡した。
見惚れるほどの笑顔でそれを受け取るマリア。
アレンの頬が少し赤く染まった。
「それより、狐は何を立ち聞きしたんだ?」
「仕事の話はしてなかったが、マリアが来てすぐだよな……あっ!」
トーマスが大きな声を出した。
「あの時マリアが……」
「あっ!」
思い当たったアラバスとアレンも叫ぶ。
「俺が不貞男になってしまったじゃないか!」
二人の側近は盛大に吹き出した。
物凄く嫌そうな顔をするアラバスにマリアが聞く。
「アシュ? ふていってなあに?」
呆然とするアラバスと、ニコニコするマリア、そして涙を流して笑い転げるアレンとトーマス……まさにカオス。