愛すべきマリア
「どういうことなの……アラバス様が他の女を抱いたって……あの日マリアは寝室にはいなかったってこと? だったら私が行っていれば私が抱かれていたの?」

 馬車の中で爪を嚙みながら呟いているのはレイラ・クランプ公爵令嬢だ。

「きっとタタンが裏切ったのね……あの王女に買収されたに違いないわ。お父様に早く報告して制裁を加えねばならないわ。でも、そうなると……アラバス様は王女を? いやぁぁぁ!」

 その声に馭者が驚いて振り向いたが、かかわるとロクなことが無いとわかっているのか、馬に一鞭くれ手先を急いだ。
 言われた通りの行動をしたにもかかわらず、ダブルスパイのタタンは知らないところで窮地に陥っていく。

「そもそもあの一家を養ってやっていたこと自体が間違いなのよ! 忌々しい寄生虫め」

 帰宅したレイラは、出迎えの使用人達には目もくれず、足早に父の執務室へと急ぐ。
 飛び込んでくるなり、ヒステリックに捲し立てるレイラ。
 そのスキャンダラスな内容に、クランプ公爵は目を丸くしていた。

「ではあのアラバスが、初夜から他の女を閨に引き入れたというのか? それをマリア妃が詰っていたということなんだな? 間違いないか?」

「ええ、お父様。私はこの耳で確かに聞きましたわ」

 啞然とした顔で固まっていたクランプ公爵の口がやっと動く。

「アラバスは誰を抱いたのだ?」

「名前はわからないわ。でも、あの日アラバス様に媚薬を盛ったことを知っているのは、タタンだけでしょう? そしてタタンはラランジェ王女の元にいるんだもの……」

「なるほどなぁ。ということは、アラバスはあの王女と契りを交わしたというわけだ。しかも初夜に? 信じられんな……それにしても、よくあのちんちくりんを抱けたな」

「だってお父様、あの媚薬はものすごく強いと聞いたわ」

「ああそうか、媚薬のせいか……そうなると、我々も忙しくなるぞ。早いところマリアを消して、ラランジェ王女との婚姻を承諾させねばならん。これほど早く事が運ぶとは思っていなかったが」

 レイラが悔しそうな顔でハンカチを嚙んでいる。

「では正妃はラランジェ王女で、私はやはり側妃ですの?」

「あの王女とお前なら、どちらが正妃でも側妃でも関係ないさ。早く孕んだ方がより強大な権力を有するんだ。仕事は側近たちがなんとかするだろう。まあ、あの王女は側妃では承諾しないだろうから、どの道マリアは消されるということだ」

「あの忌々しいマリアが消えるのね? それなら私、側妃でも我慢しますわ。そしてアラバス様の寵愛を一身に受けるように努力します! そのためにも新しいドレスや宝飾が必要だわ……お父様、国一番の商会を呼んで下さいまし」

「ああ、呼んでやるとも。あと少しでワシの野望も達成できるのだからな! これでワンダリア王国の筆頭公爵家はワシのものだ!」

 その頃アラバスは、すやすやと眠るマリアの横で悶々とした時間に耐えていた。
 そして翌朝、いつの間にか腕の中に潜り込んでいたマリアを起こさないように、静かにベッドを出る。
 床に転がり落ちていた熊のバシュを拾い上げ、自分の代わりにマリアに抱かせた。

「おはようございます。よく眠れましたか?」

 起こしに来た侍従の明るい挨拶に苦笑いで応え、着替えるために自室に向かった。
 すぐにやって来た侍従がテキパキと着替えを手伝う。
 着替えが終わるとほぼ同時に、アレンとトーマスが入ってきた。

「お前……やつれてない? 大丈夫か?」

 アレンが心配そうな声を出す。
 それをマルっと無視してアラバスが言った。

「長生きできる気がしない。それよりあちらだ。狸か狐、どちらが先に動き出すだろうな」

 トーマスがニヤッと笑った。

「ちょっと複雑だから図にしてみた。執務室に急ごう。朝食は運んでもらっているから」

 アラバスがドアを出ようとした時、隣の寝室でポスッと何かが落ちたような音がした。

「なんだ?」

「おそらくバシュがマリアに蹴り落とされたのだろう」

 朝食をとりながら頭を寄せ合っていると、ニコニコと笑いながらカーチスが顔を出した。

「おはよう! 今日は食堂に来なかったから、マリアちゃんが寂しそうだったよ? 泣きそうな顔をするものだから、父上と母上が付きっ切りで宥めていた。それよりどうしたの? 難しい顔してさぁ」

「お前も関係者だ。ここに座れ」

 逃げられないように、アレンとトーマスの間に座らされたカーチス。

「お前の仕事が少し変わる。今日からお前は、ひたすら狐から逃げている振りを狸の前でやるんだ。いいな?」

「良いなって……良いわけ無いじゃん」

 カーチスの声は誰の耳にも届かないようだ。

「狸はもう口説かなくて良い」

「マジで? 助かった」

「全てお前の演技力に掛かっているんだ。気を抜くなよ。次の夜会までには終わらせよう」

 ニヤッと笑ったアレンが口を開く。

「カーチス、君はひたすら狐から逃げろ。もし出会ってしまったら脱兎のごとく走れ」

「僕って……兎?」

「大丈夫だ。ママの部屋にでも逃げ込めば、流石の狐も入っては来れんさ」

「ママ……」

 慰めるようにカーチスの肩をポンと叩いてトーマスが言う。

「僕はちょっとバッディ王国に行ってくるよ。おじい様に会いに行くっていう大義名分があるからね」

「ああ、アスター前侯爵夫人のご実家は、バッディだったね」

「うん、かなり大きな商会を持っているんだ。身分は子爵家だけれど、王家へもの申せるほどには力があるからね。なかなか会えない外孫という立場を有効に使わせてもらおう」

 カーチスが不思議そうな顔をした。

「バッディに何しに行くの?」

「ずっと我慢してきてけれど、そろそろ父上には降りてもらおうと思ってね」

 アレンが言葉を続ける。

「連絡は取れるのだろう? 期間はどのくらいを考えている?」

 トーマスが頷いた。

「鳥を飛ばすよ。ひと月は必要だが、できるだけ早く帰るつもりだ」

「いよいよ決着をつけるか。こっちのことは心配しないで。僕とカーチスで何とか頑張るよ」

「僕が心配なのはマリアだけさ。なあアラバス、マリアを守ってくれな」

 アラバスが深く頷いた。

「任せてくれ。この命に代えてもマリアには指一本触れさせないさ」

 カーチスが聞く。

「いつ発つの?」

「今日には出るよ。カーチスも頑張ってくれ」

「う……うん……頑張る」

 始業時間になったのか、文官たちが三々五々出仕してきた。
 腰を浮かせたカーチスが兄に言う。

「ランチはみんなで食べようよ。今日は天気も良さそうだし、ガーデンランチもオツだろ」

「ああ、そのように調整しよう。準備はお前に任せるよ」

 アラバスの声に、カーチスが嬉しそうに頷く。
 窓から差し込む日差しが、執務室に優しい光を伸ばしていた。
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