愛すべきマリア
 同じころ、ランチを終えたマリアはラングレー公爵夫人と共に図書室にいた。
 花や動物や魚介類の図鑑を所狭しと並べ、公爵夫人がマリアに見せている。

「ここに書いてあるのが、この絵を表す名前なの。読んでみて?」

「バラ? 赤バラ……クイーン・カレンって書いてあるわ」

「そうよ、この絵の花はバラという種類で、名前はクイーン・カレンというの。カレンって聞き覚えはあるかしら?」

「カレン? えっと……ママの名前ね?」

「そう! 偉いわマリアちゃん。このバラはね、カレン様が王妃に即位された記念に作られたのよ。では、こちらは?」

「プリンス・ジョセフ? あっパパね? でもプリンス? パパはキングでしょ?」

「そうね、でもこのバラはジョセフ陛下がお生まれになった記念に作られたバラなのよ。キングになる前ね」

「ふぅん……だったらアシュとかカチスのもあるの?」

「ええ、あるわよ。きっともうすぐマリアちゃんのもできるのではないかしら」

 ラングレー夫人が図鑑のページを捲る。
 ワクワクしながら待つマリアを、ほのぼのとした顔で見守る侍女長。
 楽し気な先生と生徒は、時間も忘れて図鑑を捲っていた。

「お茶にしませんか? もうすぐおやつの時間です」

 侍女長の声に驚いて顔を上げた公爵夫人。

「まあ! もうそんな時間なのね。マリアちゃんの覚えが早いから、つい夢中になってしまったわ」

 マリアはまだ図鑑を覗き込んでいた。

「ねえ先生、このお花は匂いはするの?」

「ええ、お花は匂いがするものが多いわね。ここにどんな匂いか書いてあるでしょう?」

「これ? 甘酸っぱいって書いてあるわ。これは? 青臭い? 青くて臭いってどんな匂いなの?」

「言葉では難しいわ。経験するのが一番ね。ねえ侍女長、温室への入室許可と、庭師の同行許可を取ってくれない? 急がなくてもいいわ」

「畏まりました」

「マリアちゃん、お花と姿と名前を覚えたら、実際にそれを見に行きましょうね」

「はぁ~い」

「楽しみだわ。まるで初等部の遠足みたい。うふふ」

 優雅な紅茶の香りが漂う喫茶室のほぼ真下では、狐と狸の攻防が繰り広げられていた。

「あなたが座ることなど許可していませんわ」

 狸の言葉に狐が嚙みつく。

「昨日今日来たようなあなたは知らないでしょうけれど、私は子供の頃から何度もここに来ているわ。それより何なのよ! あなたは留学してきただけでしょう? 私とあの方の仲を、横から入ってきてかき回さないでちょうだい」

「だって助けてほしいって懇願されたのよ? それに……ふふふ」

 レイラはアラバスのことを言っているのだが、ラランジェはカーチスのことだと思って言い返している。
 会話が嚙みあっているようで、完全にすれ違っていることに気づくものはそこにはいない。

「懇願された? ではあの日……あの方はあなたをお呼びになったとでもいうの? 絶対に違うわ! どうやって潜り込んだのか白状なさい!」

「潜り込んだなんて失礼な女ね。あの方は私を迎えに来て、優雅にエスコートしてくださったのよ。とても優しくしてくださって、たくさん言葉を紡いで下さったわ!」

「噓をつかないで! 絶対に噓よ! きっとワインのせいね……もしそうだったとしてもあのワインを飲んだからだわ」

「ワインなんて飲んでいらっしゃらかったわ。二人で一緒にレモンチーズケーキを食べたわ。自分の好きな味を私にも教えたいって……うふふ」

「なんですってぇぇぇ!」

 ついにレイラがラランジェに飛び掛かった。
 それまでずっと控えていた双方の護衛が、ほぼ同時に間に入る。
 引き剝がされた狐と狸は肩で息をしていた。
 ラランジェを背中で庇いながら、レイラの前に立った侍女の顔を見て、レイラが指をさして口を開いた。

「あ……あんた……」

 護衛の一人が唇の前で人差し指を立て、レイラを黙らせるとウィンクをして見せた。

「さあ王女殿下、離宮に戻りましょう」

 侍女がそう声を掛けると、肩で息をしながらラランジェが呟いた。

「決めたわ。こんな女に言いよられているなんて最悪よ! 私が絶対に守って見せる」

 浮かれて実況中継などをしている間に、カーチスはラランジェにロックオンされたようだ。
 侍女と護衛に支えられながら、互いに逆の方向へと歩き出した二人を見下ろしながら、そのカーチスがボソッと言った。

「僕……生き残れるのだろうか……」

 その声にはアラバスもアレンも答えてはくれなかった。
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