愛すべきマリア
 騎士がドアを開くと、鉄の匂いのする湿った空気が一気に流れ出してくる。

「ドニー!」

 両手を縛られたまま、騎士を振り切ってぐったりと椅子に座る息子に駆け寄るカード宰相。

「父上? なぜここへ?」

「もう全部終わったんだ。お前こそなぜこんな姿になっているんだ」

「父上の指示通りに動いたつもりだったんだ。でも……」

「私の指示とはどういう意味だ? 私がお前に命じたのはラランジェ王女の護衛だけだ」

 片耳を覆うように包帯を巻かれたドナルド・カードが顔を上げた。

「え? だって……予定が変わったって……伝達が来たんだ。父上の指示だと……ちゃんと符号も持っていたし、合言葉も合っていた」

「私はそのようなものを出してはいない」

 アラバスの顔を見て頷いたトーマスが口を開いた。

「伝達が来たと言ったか? 手紙ではなく人間が来たということだな?」

 もうすっかり諦めたのか、ドナルドが素直にうなずいた。

「ええ、符号と呼んでいる札を出したうえで、確認のための合言葉を言ったので、間違いないと思って……」

「それは男か? それとも女?」

「男です。その時はワンダリアの侍従の制服を着ていましたが、学者のような姿だったり、騎士の格好をしていたり、その時によって違いましたが」

「それで? その男になんと指示された?」

「予定変更だと言われました。マリアの抹殺に失敗したからだと言ったので、なるほどと思ったのです。しかし、ラランジェも消すようにと言われたときは、さすがに耳を疑いましたが、妹のことをチラつかせてきたので、従うべきだと思いました。それに、その男は『このことは宰相も納得している』と言ったのです」

「その者の名前は?」

「本名は知りませんが、自分ではバッカスと名乗っていました」

「バッカス? ふざけた名前だな」

「そのバッカスから、レザード・タタンを消して姿を消せと指示があったのです。ラランジェは自分が消すからと……」

 アラバスが声を出した。

「どこへ逃げる気だったのだ?」

「西の国です。妹を解放すると言われて、その時に父も合流すると」

 ずっと黙っていたカーチスが声を出した。

「ねえ宰相……いや、元宰相か。納得した?」

 カード元宰相がうな垂れた。

「結局我々は捨てられたということですね。それが私のような『草』と呼ばれるスパイの運命なのでしょう」

 アラバスが声を出す。

「草か……何もなければその国で子孫を成し、そのままその国で朽ち果てていく定か。わが国もその草は存在するのか?」

 一瞬躊躇ったのち、溜息のような声で答えた。

「いると思いますよ。我々は互いのことを知りません。また、知っていたとしても、その任務までは知り得ないのです。ある者は貿易を進めるためだし、ある者は市場のかく乱だったりします。私のように開戦のきっかけを作るという者もいたはずです」

「西の国は何を企んでいるのだ?」

「帝国化ですよ。何代か前に解体された西帝国の復活を悲願として、解体直後から草を放っているのだと聞いたことがあります」

「今の国王は旧帝国皇帝の末裔か?」

「はい、本人はそのように言っています」

「なるほどな」

 カーチスが再び口を開いた。

「今の国王は変態だと言っていたな。息子はどうなのだ?」

「王太子も同じようなものです。生まれた時から帝国の復活だけを聞かされて育っていますからね、自らを皇帝になる者と信じ切っています」

 カーチスがアラバスの顔を見た。

「その変態ジュニアがラランジェに懸想したのが、ことの発端なんだってさ」

「なんだと?」

 詳しい話をするために、三人はカード親子を連れて会議室へと移動した。
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