愛すべきマリア
「あの日というのは、母親が西の国に連れ去られた日か?」

 アラバスが静かな口調で聞いた。

「はい、いきなりやってきた男たちが、病で臥せっていた母を無理やり連れ去りました。兄と私は必死で抵抗しましたが、殴られて気を失っている間に、母の姿は消えていました……兄は『母を取り戻す』と言いましたが、まだ子供だった私たちにできることはありません」

「その時父親はなんと?」

「それが我が一族の定であると言いました。母を連れ去ったということは、祖母が亡くなったのだろうと……そして母のことは諦めるように言いました。その数年後、兄に後継者研修の招集があり、兄は西の国へと旅立ちました。再会したのはラランジェの護衛として来た時です」

「ラランジェの護衛は兄の方か。お前ではなく?」

「私たちはそれほど似た顔ではありませんが、体つきはよく似ていますので、兄の指示で時折入れ替わっておりました。クランプのバカ娘が事件を起こした時は、たまたま私だったということです」

「そしてレザードを殺したか」

「いえ、レザードを殺したのはシラーズから来たドナルドです。ラランジェに短剣を奪われたのが私です。その後、どさくさに紛れてラランジェを攫う予定でしたが、王宮の医務室に運び込まれたため、計画を実行することはできませんでした」

「攫う予定はラランジェとマリアだけか?」

「はい、その二人を西の国へ連れ去る計画でした。しかし、ラランジェを攫おうとしていたのはドナルドも同じです。理由は異なりますが」

 トーマスが拳を握る。

「お前は自分の母親を助け出すために、僕の妹を差し出そうとしたわけだ。なんとも身勝手で傲慢な考えだな」

 リーベルが小さい声で言う。

「母はすでにいないと……父はそう言っていました」

「ではなぜマリアを?」

「西の国の王太子が『どうしても欲しい』と……逆らうことなどできませんよ」

 ガタッと大きな音をたててリーベルが床に転がった。
 殴ったのはトーマスだ。

「ふざけるな! お前のことは絶対に許さない。もう死にたいと思うほど苦しめてから殺してやるからな!」

 リーベルが真っ青な顔でガタガタと震えた。
 アラバスが兵士に合図を出す。

「今度は長男の方を連れてこい」

 引き摺られるように取調室を出るリーベルの顔に、初めて恐怖という感情が乗った。

「なあ、トーマス。あの男の顔を見たか? 鼻がつぶれて前歯が無かっただろ?」

 トーマスがアラバスの顔を見る。

「お前がやったのか? 容赦ないな」

「いや、ラングレー夫人だよ。鉄扇で一撃だ。何の躊躇もなく振り抜いたよ。見事だった」

 互いに声には出さなかったが、二人の喉がほぼ同時にゴクッと鳴った。
 兵士が気を利かせて入れたお茶を口に含み、トーマスが大きく息を吐く。

「手紙は作ったよ。しかしあの古代文字というのは面倒だなぁ。意味のない装飾がやたらと付いていて、書きにくいったらありゃしない」

「現代文字はその装飾をそぎ落としたものらしいが、難解は難解だよな」

 そんな話をしているうちに、長男であるシーリスが連行されてきた。

 叩きつけられるように床に転がったシーリスを見たアラバスが声を出す。

「やあ、バッカス。気分はどうだ?」

 横を向いて不貞腐れた態度を隠そうともしない男に向かって、今度はトーマスが声を掛けた。

「お前の名前はシーリスと言ったか? コードネームがバッカスか。お前たち兄弟は酒の神の名をもらったのだな。その上コードネームまで神の名だ。酒好きなのか?」

 無視するシーリスには構わず、話を続けるトーマス。

「お前の罪名はスパイ行為だ。馬鹿どもの言葉に踊らされて王族の誘拐を企てた。すでに死んでいる母親の存在をチラつかせ、弟を巻き込んだんだ。止めようとする父親に剣を向け、己の欲望を優先させた」

 シーリスの切られた腕に巻かれた布が、どす黒く変色している。

「だからどうした? 早く殺せ」

 アラバスが吹き出した。

「バカか? お前には全て喋ってもらうさ。当たり前だろう? 簡単に殺したりするわけが無い。甘えるのも大概にしろよ?」

「俺は何もしゃべらんぞ。西の国に忠誠を誓ったんだ。かの国は偉大だ」

 トーマスが静かな声で言った。

「なあシーリス。お前の母親、生きているぞ」

 シーリスがバッと顔を上げた。

「各国にスパイを放っているのは西の国だけではないんだ。なあ、母親に会いたいか?」

 シーリスが唇をかんだ。

「彼女は施設で療養しているよ。心臓がかなり弱っているが、きちんと治療を受けている」

 嬉しそうな顔でシーリスが言葉を発した。

「ほら見ろ! 西の国が俺を裏切るわけがないんだ!」

「違うよ、お前の母親を助けたのはお前の父親だ。あの男はお前など足元にも及ばんほど優秀なスパイだよ。西の国はお前たちの母親を凌辱し、酷い暴力を振るっていた。その上治療もせず放置したのさ。お前が忠誠を誓った国とはそんな国だ」

「噓だ! あの方たちがそんなことをするわけがない!」

「でも会わせてもらえなかっただろ? 会わせることなどできるわけがない。彼女はわが国に戻っているのだからな」

「まさか……そんな……」

「可哀そうな彼女は心を病んでしまった。酷く殴られたのだろう、左目の視力と左耳の聴力を失っている」

「生きているならなぜあの男は俺たちに言わなかった? どんな状態だろうと子供に教えないなんて有り得んだろ!」

 トーマスがしゃがみ込んでシーリスと目線を合わせた。
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