愛すべきマリア
そしてその夜、シラーズに向かったカーチスを除く四人が、約束の場所であるバラ園の木陰に潜んだ。
「誰がやる?」
アラバスの声にアレンが答えた。
「この中では僕の声が一番知られていないだろう? 僕が話そう。姿は見せないから問題ないさ」
月は無く、虫の音だけが聞こえる。
その虫の音がピタッと止み、誰かが来たことが分かった。
「バッカス?」
「俺はここだ。東屋に入れ」
「どうしたの? バッカス。今夜連れ出してくれるのでしょう?」
「準備はしてきたのか? それにしても身軽だな」
「大丈夫よ。バッディから連れてきた使用人たちに分散して持たせているから。彼らもすぐに後を追ってくるわ」
数秒の沈黙にダイアナが焦る。
「バッカス? ねえ、なんとか言ってよ」
アレンが低い声を出した。
「お前はやはり間抜けだ。奴らはすでにバッディに戻っている。お前の言う私財とやらはすべて国庫に返還されているよ」
「なんですって? あの者たちが裏切った? まさか……一生私に尽くすと言っていたのに」
「そのまさかさ。一生尽くすといったって、それは報酬があるからだ。当たり前だろう?」
ダイアナが拳を握った。
「でも……でも……西の国の王太子様が求めておられるのは私でしょう? 私さえ行けば満足してくださるはずよ。だって私は西の国の王妃にと望まれているのだもの」
「それはどうかな?」
「いいえ! 絶対にそうよ。だってあんなに優しい言葉を綴ったお手紙を下さるような方ですもの。私をぜひ迎え入れたいって書いてあったわ。だから早く連れて行ってちょうだい。お金は無くなってしまったけれど、あの方のお望みだったバッディ辺境領の戦力配置はここにあるわ。それにあのトーマスって男は私にべた惚れだもの。少し色目を使って聞いたら、何でもペラペラと喋ったわ。この国の戦力も次期王の為人もすべて把握しているわ。きっと喜んで下さるはずよ」
軽いヒステリー状態になったダイアナの前に、一人の男が姿を現した。
「バッカス?」
そう言ったダイアナの目が見開く。
「お……お兄様……なぜ……」
バッディ新王となったダイアナの兄が、悲しそうな顔で妹を見た。
「ダイアナ、お前はいったい何が不満なのだ? いったい何がしたい?」
兄の声にダイアナが数歩後退った。
「ダイアナ! 答えよ!」
「ひぃっ!」
ガタガタと体を振るわせるダイアナ。
「お前は西の国に行き、我が国を滅ぼそうとしたのか? シラーズを飲み込み、ここワンダリアも手中に収めるつもりだったのか? お前の望みは何だ」
「わ……私の望みは……皇帝妃として君臨することよ! そうよ、お兄さまを私の前に跪かせるのよ! でも私たちは兄弟ですもの。私を皇帝妃として認めるなら、バッディを優遇してもいいわ」
パシッと小気味良い音が庭園に響く。
バッディ王が妹の頬を打った音だった。
「お兄様……」
「お前は第一王女として厳しい教育にも耐えてきたではないか。本当によくやっていると思っていたよ。それなのになぜそのような妄想を抱くようになった?」
「だって……いくら頑張っても私は国王にはなれないのよ? お兄様より優秀な成績をとっても、政治の駒としてどこかに嫁ぐしかないの。そんなのバカバカしいわ。私は頂点に立つべき人間よ!」
「バカが……そう考えた時点でお前には無理だ。国政を甘く考えすぎている」
「フンッ! なんとでも言えばいいわ。私は私の実力で人生を切り開くの。あ兄さまなんかに負けやしないわ」
バッディ王がフッと息を吐いて肩を落とした。
「そうか、それならば好きにしなさい。西の国へ行きたいのだったな? 国境まで送ってやろう。そこでお前とは縁きりだ。二度と我が国の土は踏ませない。それで満足か?」
ダイアナは答えず、ただ肩を震わせている。
トーマスが茂みから姿を現した。
「トーマス? なぜあなたまで……どういうことなの?」
「君は初めから監視対象だったよ。僕が君に流した情報はすべてガセだ」
「……」
「戻るなら今しかない。決断せよ」
「……行くわ。私は皇帝妃になる」
トーマスが一歩前に出る。
「やめた方がいい。死ぬことになるのだぞ」
ダイアナの肩がビクッと揺れた。
「だって……だって……」
バッディ王がトーマスの肩に手を置いた。
「トーマス殿、ありがとう。しかしもうこれまでだ。妹のことは諦める。あなたが相手ならこの子も幸せになるだろうと思ったのだが……あなたには損な役回りを押し付けてしまった。本当に申し訳なかった」
そう言うとバッディ王はスラッと剣を抜いた。
「お兄様? 私を殺すというの? そんなことができるの?」
「ああ、私はバッディ王国の国王だ。国のためならたとえ我が子であったとしても、為すべきなら躊躇はしない」
「お兄様……」
その時バラの茂みの向こうからマリアが顔を出した。
「何してるの?」
「マリア!」
アラバスとトーマスとアレンがほぼ同時に叫んだ。
「誰がやる?」
アラバスの声にアレンが答えた。
「この中では僕の声が一番知られていないだろう? 僕が話そう。姿は見せないから問題ないさ」
月は無く、虫の音だけが聞こえる。
その虫の音がピタッと止み、誰かが来たことが分かった。
「バッカス?」
「俺はここだ。東屋に入れ」
「どうしたの? バッカス。今夜連れ出してくれるのでしょう?」
「準備はしてきたのか? それにしても身軽だな」
「大丈夫よ。バッディから連れてきた使用人たちに分散して持たせているから。彼らもすぐに後を追ってくるわ」
数秒の沈黙にダイアナが焦る。
「バッカス? ねえ、なんとか言ってよ」
アレンが低い声を出した。
「お前はやはり間抜けだ。奴らはすでにバッディに戻っている。お前の言う私財とやらはすべて国庫に返還されているよ」
「なんですって? あの者たちが裏切った? まさか……一生私に尽くすと言っていたのに」
「そのまさかさ。一生尽くすといったって、それは報酬があるからだ。当たり前だろう?」
ダイアナが拳を握った。
「でも……でも……西の国の王太子様が求めておられるのは私でしょう? 私さえ行けば満足してくださるはずよ。だって私は西の国の王妃にと望まれているのだもの」
「それはどうかな?」
「いいえ! 絶対にそうよ。だってあんなに優しい言葉を綴ったお手紙を下さるような方ですもの。私をぜひ迎え入れたいって書いてあったわ。だから早く連れて行ってちょうだい。お金は無くなってしまったけれど、あの方のお望みだったバッディ辺境領の戦力配置はここにあるわ。それにあのトーマスって男は私にべた惚れだもの。少し色目を使って聞いたら、何でもペラペラと喋ったわ。この国の戦力も次期王の為人もすべて把握しているわ。きっと喜んで下さるはずよ」
軽いヒステリー状態になったダイアナの前に、一人の男が姿を現した。
「バッカス?」
そう言ったダイアナの目が見開く。
「お……お兄様……なぜ……」
バッディ新王となったダイアナの兄が、悲しそうな顔で妹を見た。
「ダイアナ、お前はいったい何が不満なのだ? いったい何がしたい?」
兄の声にダイアナが数歩後退った。
「ダイアナ! 答えよ!」
「ひぃっ!」
ガタガタと体を振るわせるダイアナ。
「お前は西の国に行き、我が国を滅ぼそうとしたのか? シラーズを飲み込み、ここワンダリアも手中に収めるつもりだったのか? お前の望みは何だ」
「わ……私の望みは……皇帝妃として君臨することよ! そうよ、お兄さまを私の前に跪かせるのよ! でも私たちは兄弟ですもの。私を皇帝妃として認めるなら、バッディを優遇してもいいわ」
パシッと小気味良い音が庭園に響く。
バッディ王が妹の頬を打った音だった。
「お兄様……」
「お前は第一王女として厳しい教育にも耐えてきたではないか。本当によくやっていると思っていたよ。それなのになぜそのような妄想を抱くようになった?」
「だって……いくら頑張っても私は国王にはなれないのよ? お兄様より優秀な成績をとっても、政治の駒としてどこかに嫁ぐしかないの。そんなのバカバカしいわ。私は頂点に立つべき人間よ!」
「バカが……そう考えた時点でお前には無理だ。国政を甘く考えすぎている」
「フンッ! なんとでも言えばいいわ。私は私の実力で人生を切り開くの。あ兄さまなんかに負けやしないわ」
バッディ王がフッと息を吐いて肩を落とした。
「そうか、それならば好きにしなさい。西の国へ行きたいのだったな? 国境まで送ってやろう。そこでお前とは縁きりだ。二度と我が国の土は踏ませない。それで満足か?」
ダイアナは答えず、ただ肩を震わせている。
トーマスが茂みから姿を現した。
「トーマス? なぜあなたまで……どういうことなの?」
「君は初めから監視対象だったよ。僕が君に流した情報はすべてガセだ」
「……」
「戻るなら今しかない。決断せよ」
「……行くわ。私は皇帝妃になる」
トーマスが一歩前に出る。
「やめた方がいい。死ぬことになるのだぞ」
ダイアナの肩がビクッと揺れた。
「だって……だって……」
バッディ王がトーマスの肩に手を置いた。
「トーマス殿、ありがとう。しかしもうこれまでだ。妹のことは諦める。あなたが相手ならこの子も幸せになるだろうと思ったのだが……あなたには損な役回りを押し付けてしまった。本当に申し訳なかった」
そう言うとバッディ王はスラッと剣を抜いた。
「お兄様? 私を殺すというの? そんなことができるの?」
「ああ、私はバッディ王国の国王だ。国のためならたとえ我が子であったとしても、為すべきなら躊躇はしない」
「お兄様……」
その時バラの茂みの向こうからマリアが顔を出した。
「何してるの?」
「マリア!」
アラバスとトーマスとアレンがほぼ同時に叫んだ。