Snow White
 空から舞い降りてくる綿雪は、まるで先輩のようだ。
 柔らかな肌は、まさに雪を写し取ったよう。長い髪も、確かに黒色なのに、俺の髪が持つただの黒とはまったく違う。先輩の髪は、雪どけ水で溶いたような透明な黒。こげ茶色の瞳も、ピンク色の爪も、先輩が持つ色味は、全てが淡くおぼろげだ。
 バイトに採用されたカフェで教育係として先輩を紹介されたとき、冷たそうな人だと思った。とがった顎や、高く通った鼻筋、細く儚げな睫毛に、作りものめいた精巧さを感じたから。化粧が施されていてなお薄い頰の血色も、感情のない人形のように思えた。
 けれど、形のきれいなくちびるがひらかれた瞬間、冷たさはあとかたもなく消えた。発された声はどこかあどけなくて、顔全体にふわりとひろがった笑みは、綻んだばかりの花を思わせた。唯一、「襟、曲がってるよ」と首元に触れた白い手だけが、ひんやりと冷たかった。
 先輩は俺より二つ年上の大学生だけれど、無邪気で、人懐っこくて、その子供っぽい雰囲気がもたらす、ごく自然なスキンシップが多かった。それは、俺と先輩が恋人同士になってからもしばらく続いた。女子相手なら構わない。問題は、学ランの肩にじゃんけん列車をしたり、野球部引退後の頭を「のびてきたねー」と撫でていたりしたときだった。そんな場面に遭遇するたび、俺は冷やかな視線を先輩に送った。俺と目が合うと、先輩は「ごめん怒んないでー」と顔の前で手を合わせるか、「またやっちゃった」といたずらっ子のように舌を出すかのどちらかだった。せめてもの牽制として、ふたりでいるときは名前で呼び合うことを提案したこともある。けれど、「バイトのときに間違って呼んじゃうかもしれないよ。私、ぜったい呼ぶ自信あるよ!」とこちらの意図を見透かしたように(先輩に限ってそれはありえないけれど)、それはそれは誇らしげに言われ、結局、不本意ながら先輩と呼び続けている。
 そんな風な先輩だから、バイトのメンバーには、俺の方が年上みたいだとよく言われる。けれど、バイトを上がって一緒に街を歩いているとき、やっぱり俺は先輩より二つも年下なんだって思わずにはいられない。私服姿の先輩は、化粧もしていて、きちんと大学生だ。対して、制服を着た俺の顔にはにきびの跡もあって、どこからどう見ても高校生。たとえば、ショップのガラスに映り込んだ自分たちを見ると、周りから姉弟に見えているのではないかと悔しくなる。そんなとき、俺は顔に無表情を貼り付けて、先輩の細い指に自分の指を絡める。
 市内で初雪が観測された日もそうだった。薄いグレーの空を申し訳程度に舞う白を見上げながら、「修学旅行、スキーあるんだよね? いいなぁ、かまくらも作れるね」と先輩が笑った。「かまくらはないでしょ。スキー場ですよ」と平たい声で突っ込みながら、内心では、修学旅行というワードに引っかかっていた。「私の地元、ぜんぜん雪降らないからー。憧れなんだよ、かまくら。インフルエンザのせいで修学旅行も行き損ねたし」と微妙にかみ合っていない返答をしてくる先輩の手を取った。そのまま、学校指定のコートのポケットに入れる。
「手、冷たすぎて可哀そうなんであっためます。雪降ってるとやっぱ寒いし」
「……冷え性だから」
 長い睫毛を伏せる先輩を横目で窺うと、無表情がはがれそうになった。慌てて足元に視線を落とした。小さな雪の欠片が、アスファルトに吸い込まれてゆく。冷え性の先輩の手は、いつまで握っていても冷たいままだ。それで、丁度いいと思った。コートとブレザーに包まれた腋の下には、汗がにじんでいたから。
 ――先輩が目を伏せた本当の意味を、このときの俺は知らなかった。

 鍵があいていた。その時点で、不穏なものを感じた。
 腕に力をかけ、扉をひらくと、すぐ目の前に先輩が倒れていた。アパート特有の狭い上がり框に、肩から上がうつぶせになり、両手は力なく投げ出されている。頭の向こうにはバッグの中身が散乱していた。
「先輩……っ」
 床に膝を突き、抱え起こした身体は、驚く程に冷たかった。まるで、雪のかたまりを抱いているみたいだ。数秒、息が止まった。腕の中で、先輩が僅かに身じろぎ、はっと我に返る。
「先輩っ、大丈夫ですか!」
 先輩の瞼が、薄く開いた。「日下部くん、」と名前を呼ばれたことに幾分安堵した。
「修学旅行、終わったんだ。ごめんね、店長に言われて、様子、見に来てくれたんでしょう」
 そう続けられた声は、今にも消え入りそうなくらいに頼りない。口元に耳を近づけてようやく聞き取れた。
「店長が心配してたんです。無断欠勤なんてどうしたんだろうって。早く病院行きましょう。タクシー呼んで……、それか、救急車」
 スラックスのポケットからスマホを取り出すが、慌てていたせいで、それは手から滑り落ちた。拾い上げようとした。けれど、先輩の冷たい手に奪われた。
「先輩?」
「どっちも呼ばなくていいから」
 その言葉を発したくちびるは、口角に少しだけ残っている口紅以外、完全に血色を失っている。「何言ってんですか」と焦った声でスマホを取り返そうとする。けれど、先輩は細い指に力を込め、決してスマホを離さない。
「病気とかじゃないから」
 先輩が薄く笑う。力のない笑みだった。けれど、――恐ろしさを感じる程に、きれいな笑みだった。一瞬、息が止まった。
「体温がなくなっただけ。私は、人から体温を奪わないと生きていけないの」
 言われたことの意味が分からなかった。先輩の声を、頭の中でもう一度再生する。けれど、やっぱり、単語それぞれが持つ意味しか理解できない。言葉を返せないでいると、先輩はひとつまばたきをした。
「病院に行ったってなんにもできない。それに、……だれも信じない」
 その言葉が耳に届いた次の瞬間、先輩に腕を振りほどかれた。驚いてバランスを崩すと、背中に扉がぶつかった。まるで縋るように、先輩はドアノブを両手で掴んだ。扉がひらき、俺の身体は外へ倒れ込む。
「ごめんね」
 閉じようとする扉の隙間から、先輩は苦しそうな声で謝罪した。白い頬に涙が伝っている。透明な雫が、とがった顎を滑り落ちた。
「先輩……っ」
 ドアの隙間に腕を差し込んだ。腕に鈍い痛みが走り、喉からくぐもった声が漏れる。それに怯んだ先輩の腕から力が抜けた。一気に扉をひらき、先輩の肩を掴んだ。
 頬に手を触れると、先輩は大きく目を見開いた。構わずに上を向かせ、色味を失ったくちびるに自分のくちびるを合わせた。初めてのキスは、歯がぶつかって、血の味がした。顔を離し、先輩の唇を確認した。よかった、切れたのは先輩の方じゃない。
「信じます」
 言葉を発したくちびるは、冷たさで感覚が薄まっている。まるで、歯医者で麻酔をかけられたあとみたいに。「何言ってるの」と、怯えた瞳で先輩が問う。
「俺の体温、あげればいいんですよね」
 先輩が次の台詞を言う前に、きつく抱きしめた。腕の中で、息を呑む気配を感じる。
「離して」と先輩が言った。俺は腕に力を込める。もう一度、発された声は大きく震えていた。次に発された声は、ほとんど金切り声だった。
 俺の身体の感覚が鈍くなるごとに、先輩は動きを取り戻していった。先輩は俺を突き放そうとする。けれど、力は俺の方が強い。俺は先輩の腕を抑え込む。「やめて」と先輩が俺の胸を叩いた。
「体温を使い尽くしてほとんど空っぽだったの。私はまだ奪えるの。日下部くんの体温、全部奪ってしまえるの」
 その言葉を聞いて、気付いた。思い出すのは、俺の冷たい視線を受けて、顔の前で手を合わせる先輩の気まずそうな仕草。いたずらっ子のような先輩の笑み。そして、長い睫毛を伏せる先輩の、きれいな横顔。
「俺のせいだ」と掠れた声をようやく発した。先輩は、俺が修学旅行で不在の四日間で、体温を使い尽くしたのだ。俺が、スキンシップを咎め続けたせいで。
 ――だったらなおさら、離すことなんてできない。
「違うから。日下部くんのせいじゃないから。もともと、死ぬつもりでひとり暮らしを始めたの。やっと、死ぬ決心ができたの。私は大丈夫だから。……だから、離してっ、」
 それ以降も、先輩は何かを叫んでいた。けれど、俺にはもう、その言葉を受け止めることができなかった。視界がぼやけて、歪んだ。頬を伝う温かな水の感触と、自分が発した言葉だけを、辛うじて認識できた。
「嫌です。先輩が死んだら、俺は生きていけない」

 
 先輩から向けられる無邪気で純粋な愛情は、俺の心を鮮烈にえぐった。
 今まで、それを与える側を、優しく、素晴らしく見せるための愛情しか知らなかった。「子供のために」は柔らかに微笑んだ面差しを飾り立てる言葉。愛を裏切るだけならいいのに、声高に愛を語り、俺を愛の象徴にする。
 結婚って何。
 永遠の誓いって何。
 それを問うことすら失くなったら、誰かを好きになるという感情を、すっかりどこかへ失くしていた。
 けれど先輩に会って、目に映るものから、色を見つける喜びを思い出した。耳に届くものから、音を探す楽しさを思い出した。そして、心に触れた優しさから、恋の仕方を思い出した。
 先輩がいなくなれば、また全てを失ってしまう。
 そうなるくらいなら俺は、俺の心臓が止まったとしても、俺が持っている全ての体温を先輩に受け渡す。

 ――私たちは、かつて、雪女と呼ばれていた一族だ。
 伝説の中で、雪女は人間の精気を奪うとか、その果てに凍死させるとか語られている。でもそんなことをしたのはごく稀なことで、そうしなければほかに生きる道がなかったときだけだったらしい。
 私たちは、何を食べてもそれをエネルギーに変えることができないだけだ。だから必ずしも、人から体温を奪う必要はない。たとえばおひさまの光が持つ熱だとか、温泉のお湯だとか、そういうものからエネルギーを受け取ればいい。科学が発展し、冬でも簡単に熱を生み出せるようになった現代では、人から体温を奪うなんてことはもう一切なくなった。みんな普通の顔をして、普通の人として生きている。――私以外は。
 私は生まれたときから、人の体温しか受け取ることができなかった。優しい両親は、この体質をどうにか治そうとしてくれた。でも、何をしても治らなかった。私は人から体温を奪わなければ生きていけない。この現代でたったひとり、私だけが、雪女のままだ。

 日下部くんの身体から力が抜けた。胸を押し、私を抱きしめていた腕を振りほどく。意識を失った彼の背中を壁にもたせかけると、奥の部屋へと走った。ベッドの上の毛布を引っ掴み、玄関に戻る。彼の身体を毛布で包みながら、ぼろぼろと涙が零れた。
 大丈夫だ、身体を離す瞬間まで、彼の鼓動は聞こえていた。ふるえる身体にそう言い聞かせ、床に落ちているスマホに手を伸ばした。でもスマホを持ち上げた途端、すぐに取り落とした。何やってるの、何やってるの、――本当に、私は何やってるの。
 愚かにも彼に恋をしてしまってから、名前で呼び合うことだとか、キスだとか、せめて形だけは深入りしないように気を付けていた。でもほんとうは、ぜんぜん気を付けられてなんかいなかった。日下部くんより二つも年上なのに、私は彼にどうしようもなく囚われていた。びっくりするくらいに大人びているのに、まったく裏表のない優しさは、私をたまらなく安心させた。高校生の彼が、ほんとうの大人になった姿を見てみたいと思った。ずっと一緒に生きていたいと願ってしまった。私は、彼から体温を奪い続けなければ、生きていけないのに。
 彼が修学旅行で不在の四日間で、それをようやく思い出した。だんだんと熱を失っていく自分の身体を両腕で抱き込みながら、自分が愚かな夢を見ていたのだと思い知った。私が彼以外に触れたなら、彼は悲しそうな顔をする。だったらもう、彼以外には触れたくない。でもそうしたら、私はどうやって生きていくの? 私は彼を、永遠に損ないながら生きていくの? ――そこまで考えが至ったとき、決心がついた。「大丈夫だよ、いつまでもお父さんとお母さんに頼っていられないもん。ちゃんとひとりでも生きていけるように、ひとり暮らしがしたいの」って笑ったとき、優しい両親が返してくれた、優しい微笑みを思い返しながら。
 胸が痛い。苦しい。きっと、止まりかけていた心臓に、勢いよく体温が流れ込んだからだ。私は手の甲で涙を払い、スマホに手を伸ばした。震える手は、今度こそそれを捕まえた。ボタンを押す直前、日下部くんを見た。大丈夫、私がいなくなったって、生きていけるよ。だって君は、まだ高校生だ。
 三ケタの数字を押し、スマホを耳に当てたそのときだった。
「俺のは奪っといて、ずるいですね」
 横から伸びてきた手にスマホを取られた。意識を失っていたはずの日下部くんが、片膝で立っている。日下部くんは終話ボタンを押すと、スマホを背中の向こう側に隠した。そうして、もう片方の手で私の肩を掴んだ。ひっ、と息を呑む。
「駄目だよ、返して! もう病院に行かないと……」
 救急車を呼んで、君が連れて行かれたら、私の心臓は今度こそ動きを止めるはずだ。そうしたら、私をとりまく全てがうまく進み始める。お父さんもお母さんも、苦しいものから解放されて、きれいで優しい涙を流せるのに。
 肩から手を振りほどこうと身体をひねるが、手首を捕まえられた。そのまま再び抱きしめられ、今までにない感覚を覚えたのと、「あったかい」と彼が呟いたのは同時だった。
 そんなはずない、と目を見開く。私の身体は、他人の体温をひたすらに奪い続ける。あったかいとは、身体が温度を受け取るときの感覚のはずだ。私の身体が、日下部くんの身体に体温を渡せるはずがない。
 でも、だったら、私の身体を支配している、この感覚は何なのだろう。何かが損なわれるような――それでいて、穏やかに澄み切ったこの感覚は。
 ――つめたい。
 揺れ動く意識の奥底で、その言葉を見つけたとき、私の息は一瞬止まった。先程から心臓をおそっていた痛みが、急に大きく意識された。こんな痛みを感じたことは、これまでになかった。心臓が、今までとは違う動きをしている。
 日下部くんの鼓動が聞こえる。日下部くんの体温を奪う間、私はずっと、この音を聞き続けた。私の身体は、この動きをずっと感じ続けた。私の心臓は、日下部くんの鼓動から、温かい血の流し方を覚えたのか。
「日下部くん、冷たいよ」
 涙の混じった声でそう言えば、「すみません」と彼は僅かに身体を離した。「離さないで」と私は胸に縋りつく。
「今度は、私の体温をあげるから」
 やがて、私の身体と彼の身体が同じ温度になった。私は次から次へと涙を零しながら、「貴之くん」と彼の名前を何度も呼んだ。
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