The previous night of the world revolution2〜A.D.〜
きっかけは、彼の両親の死だった。

その頃、私達は15歳になっていた。

女子である私は、勤労奉仕として、家の近くにある食料工場で働いていた。

ルーザのお母さんが行っていたのと同じ職場だ。

ルーザの方は土木作業員として、道路を作ったり直したりしていた。

労働は過酷だった。労働時間も長かったし、どんなに働いても、賃金が増えることはなかった。

賃金と言うか、報酬は配給券だけど。

あの頃、私達は仕事のこととは別に、二つの悩みを抱いていた。

工場で作業をしている間も、頭にあるのはその二つの悩みだけだった。

一つ目は、ルーザのお母さんのことだった。

ルーザのお母さんは、昨年に身体を壊し、床に臥せってしまっていた。

労働可能年齢になった大人が、体調不良等で働けなくなった場合…。その人のぶんの配給券は、大幅にカットされる。

つまり、働けない者を食わせる必要はない、ということだ。

ルーザのお母さんのぶんの配給を得る為には、残った家族が余計に働かなければならなかった。

けれどどんなに働いても、配給はほとんど増えなかった。

従って私達は、三人ぶんの食料を、四人で分けなければならなかった。

ルーザのお母さんは、自分のことはもう放っておいて欲しい、と何度も言った。

限られた食料を、病人である自分に分ける必要はない。働いているあなた達が食べてくれ。

何度そう言われたことか。

けれども私達は、お母さんがそう言う度に窘めた。

諦めちゃいけない、と。

私達はお母さんがまた元気になることを信じていた。

と言うより、諦めたくなかったのだ。

ルーザのお母さんの為に我慢するのは、私にとって苦痛ではなかった。

彼女は今まで、私にとても良くしてくれた。

実子でない私の為に、自分が我慢してまで食べさせてくれた。

だから、今度は私の番。

そう思って、私はなんとかお母さんに食べさせようと頑張った。

けれど、現実はそんなに甘くなかった。

ただ休んで眠っているだけでは、お母さんの病気は良くならなかった。

何か、治療をしなければ。

でも、何の治療が出来ると言うのだろう。

病院に行くお金も、薬を買うお金もなかった。

病人を家に置いているということすら、あの国では普通ではなかった。

治る見込みのない病人を、生かしておくことはない。

姥捨山のように、そっと家族の手で息の根を止めるか、あるいは、食べ物を与えずに自然死するのを待った。

それなのに私達は、治る見込みも薄いお母さんを生かそうと、少ない食料を分け、なんとか看病しようとしていた。

近所の人間は、そんな私達を白い目で見ていた。

役立たずの穀潰しを、何だって生かしているのかと。

口減らしの為に、我が子の首を絞めるのも珍しくなかったのだ。

そんな価値観が広がった国で、私達家族がどんなに異端だったか、分かることだろう。

そして、もう一つの悩み。

それは、私とルーザに関することだった。
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