愛されることは望んでいませんから
そして、またあくる日の休日。アドニスはいつものようにソファに座り新聞を読み、パメラは横に座っていた。パメラは読まれていない新聞をじっと見ている。それに気づいたアドニスが声をかけた。
「読みたいなら読んでもいい」
「あ、いえ……読んでも分からないことが多いので……」
困ったようにパメラは笑った。新聞を読むこと自体は苦ではないが、アドニスが読んでいるのは経済や物流のことがメインで、古い考えで淑女らしくと、教育を受けたパメラには縁のないものだった。
アドニスが爵位を継いだファーマン男爵家は領地経営ではなく、投資で財を成してきた家だ。爵位も前代から始まったもので、成り上がり、と揶揄されるほど家名としての歴史は浅い。その為、パメラの家と縁続きになったわけだが。
一代で跳ね上がってしまった財に、若い領主、アドニスの性格もあって、何かとやっかみも多い。
それゆえ、アドニスは領地への視察をパメラと同行することはあっても、メイン事業に関わらせるようなことはしなかった。必然的にアドニスの仕事関連の知識を知る機械も失われていた。
アドニスがパメラを仕事に関わらせなかったのは、彼女の知識を軽んじていたわけではない。悪意の中にパメラを晒すのが嫌だったのだ。
そんなアドニスの気持ちをパメラはどことなく察しており、彼が望むことしかしていなかった。
しかし、もっと何かお手伝いできることがあるならば……と思ってしまうのがパメラである。
だが、何をどう学べばよいかも分からない。アドニスの読んでいそうな記事に目を通すが、前提が分からず、ため息をつきたくなる。
(旦那様のお仕事のことをもっと学んでおけばよかったわ……)
家庭教師がいるうちは聞けることもあっただろうに。今となっては、それもできない。だから、アドニスに読んでもよいと言われても、パメラは曖昧に笑うしかできなかった。
情けなくてうつ向くパメラに、アドニスは自分の読んでいた新聞を大きく広げた。その時、二人の肩が触れる。反射的にびくっと震えたパメラだったが、アドニスは構わず広げた新聞の端を持つように言う。
「分からないことは教えてやる。だから読め」
思ってもないことを言われた。嬉しい。幸せが胸に広がるのに、近づきすぎた距離に顔が熱くなってしまう。一人で意識していることが恥ずかしくなり、パメラは小さな声でお願いを口にした。
「ありがとうございます……でも、これでは旦那様が読みづらいですし……別の新聞を読ませて頂いてもよろしいですか?」
せっかくの好意を無駄にしてしまう。それは苦しかったが、この体勢のままでは頭に何も残らない。
か細い訴えにアドニスは急に離れ、咳払いをした。
「……それもそうだな。だが……遠慮はするな。分からなければ教える」
その一言にパメラの頬が緩む。
「旦那様、ありがとうございます。とってもとっても嬉しいです」
そう言うとアドニスは、視線を逸らしてしまった。それに微笑みかけ、パメラは新聞を手に取った。
こうして、二人が並んで新聞を読む時間ができた。パメラは遠慮してなかなか質問ができなかったが、それを見越して、難しい顔をしていると、アドニスはさりげなく声をかけてくれた。そして、二人の間には会話が増えていった。
とくん、とくん、とくん。
この頃、パメラの心は幸せな音を奏でていた。アドニスは優しく、使用人たちも優しい。
とくん、とくん、とくん。
幸せで、心は弾むようなリズムをとっていた。
でも、同時に苦しく締め付ける何かをパメラは感じていた。
――バタン
あくる夜、アドニスが寝付いた後、パメラは自室に戻ってきた。その顔に朗らかな笑顔はない。皆には見せない無表情な顔。先程まで見ていたアドニスの穏やかな寝顔を思い出し、心はあたたまるというのに、苦い思いで塗りつぶされてしまう。パメラは口に力を入れて、きつく閉じた。
パメラの心を苦い思いで塗りつぶすのは、曾祖母のある言葉のせいだ。
『――お前はただの貢ぎ物だ。愛されるなど期待しなくていい』
冷たいナイフのような言葉。それがパメラの心を抉る。
「わかってますわ、ひいおばあ様……」
パメラは分かっていた。アドニスはお飾りの妻でも、気遣ってくれているだけだ。
パメラは分かっていた。
この貴族社会が自分には優しくないことを。
どこまでも慈愛に満ちていた孤児院とは違って貴族社会は冷たい。愛なんてあっても、すぐ無くなってしまう。儚くなってしまった母と壊れてしまった父のように。
パメラは机に座り、一冊のノートを開いた。そのノートは何度も破られた箇所がある白紙のノートだった。そこにペンを走らせる。
『旦那様とお話できて嬉しい。もっとお話したい。笑顔がみたい。名前を呼んでほしい。叶うなら、もっともっと……そして、愛され――』
そう書くとページを破り、くしゃくしゃに丸める。立ち上がったパメラは紙を持って外にでた。
春の陽気になったというのに外は肌寒かった。侍女に見つからぬよう周囲を見渡し、ポケットからマッチを取り出す。マッチを擦り、紙に火を付け燃やす。紙は呆気なく燃えて灰になった。それをパメラは静かに見届けた。完全に燃えてなくなると、パメラにはいつもの笑顔が戻る。そして、自室へと戻った。
パメラは変わった娘だった。
しかし、普通の娘でもあった。
彼女は辛い境遇から心を守るため、こうやって望むことを綴っては破り捨ててきた。でなければ、幼いパメラの心は脆く崩れ去っていただろう。だから、これは儀式なのだ。パメラがパメラであるための。
愛されることは望まない。
かわりに無償の愛を皆に。
見返りを求めなければ、穏やかな日々がある。
パメラは冷たい貴族の世界をそうやって生きてきた。