愛されることは望んでいませんから
その感情の名前は sideアドニス
アドニスはパメラに対して妙な居心地の悪さを感じるようになっていた。彼女を見るとドキドキと心臓は高鳴り、顔をそむけてしまう。居心地が悪いのにそばにいないと落ち着かない。特に彼女が笑顔で「旦那様」と呼ぶと無性に触りたくなった。そんな自分に戸惑う。打算まみれの結婚だったはずだ。彼女もそれは分かっているはずだ。なのに、どうしたことか……
ズキン、ズキン。頭痛はしなくなったというのに、胸の痛みが今度は酷くなってきた。
夜になると、パメラは相変わらずせっせとアドニスの体をほぐす。この時間は最初は心地よく、すっと眠りに落ちていた。しかし、段々と恥ずかしいものに変わっていく。彼女が自分に触れる唯一の時間。触れる手は優しく「気持ちいいですか?」と耳の近くで囁かれる声は甘い。アドニスは顔が赤くなっていることを悟られたくなくて、わざと枕に顔を押し付けていた。
彼女から気持ち良いか?と聞かれても「まぁまぁだ……」としか言えない。
もっと優しい言葉をかけたいのに、出てくる言葉はそっけない。人に優しくするなど久しくなかったアドニスにとって、それはとてもハードルが高いものだった。
「ふふっ。よかったです」
嬉しそうな彼女の声。この声を聞くと心臓が痛かった。
アドニスを困惑させたのは自分が寝た後の彼女の行動だった。
「寝てしまったんですか? 旦那様……」
本当は寝ていないが寝たふりをする。すると彼女はそっと体から降りてアドニスに布団をかける。その後、じっとアドニスを見つめるのだ。その視線を感じて、心地が悪いが我慢する。それは、この後の声が聞きたいからだ。
「アドニス様……」
震えるような小さな声で彼女は自分の名を呼んだ。この時だけだ。彼女がアドニスの名を呼ぶのは。その声を聞くと感情が高ぶってしまう。
「アドニス様……私は……」
その続きを聞きたいのに、いつも彼女は口をつぐんでしまう。そして、無言で離れていくのだ。
今日もまた、彼女の気配が遠ざかろうとする。
いつもなら我慢ができることが、この日は我慢ができなかった。体を起こし、遠のく彼女の手をとる。そして、初めて名を呼んだ。
「パメラ……」
「っ!」
パメラは驚いていた。当然だ。アドニスは寝ているものと、思い込んでいたからだ。手をとったものの、アドニスは次の言葉が出てこなかった。先ほどのことを尋ねたい。どうして、寝ている時にしか名を呼ばないのか。切なく震えた声の意味を。
その先にある思いを。
「っ……」
言葉を出したいのに口は無意味に動くだけだ。ただ、繋がれた指先だけが熱くなっていく。このまま手を離せば、ぬくもりは去っていってしまう。一人、静かな夜がくる。この手を恋しく思って、焦れるような夜がまた。
それが耐えきれそうになく、アドニスは咄嗟に嘘をついた。
「君とは一度も夜を共にしていない。そろそろ、世継ぎのことも考えなくてはいけない頃だ」
嘘をついたはずだった。しかし、それは真の意味ではアドニスにとって、嘘ではなかった。
パメラが息を飲む。困惑した顔に、心が切ない音を立てる。
「そうですね……そういう約束でしたものね」
パメラが目を泳がせながら笑う。それにアドニスの心はチクリと痛んだ。掴んだ手を引き寄せようとしたが、パメラの声で遮られた。
「それでは、滋養がつくものを食べませんと!」
手を振りきられて、パメラは明るい顔で言う。その声に仰天した。
「今晩は胃に優しいものでしたものね。では、今度は滋養がたっぷりつくものをご用意しますね」
「あ、あぁ……」
「ふふっ。では、おやすみなさいませ、旦那様」
丁寧にお辞儀してパメラは部屋を出る。バタンと扉がしまった。
「はぁ――……」
長いため息が出て、アドニスは項垂れた。パメラに対して自分は何をしようとした? その先を想像して、頭がおかしくなりそうだ。
パメラは変わった娘だ。最初からこちらの調子を崩すことをしてくる。無くしてしまった愛情のピースを埋めるようにパメラはどこまでもアドニスに甘く優しかった。だけど、けして見返りは求めない。ただ純粋に慕ってくる。それが心地よすぎる。
(甘えきっているな……)
子供じみた思考が嫌になる。いつから自分はこんなに弱気になったのか。
爵位を継ぎ、悪意を跳ね返す強さを求めたはずなのに。
冷えた手のひらを見つめ、また長いため息を吐く。
高ぶった感情を沈めようとアドニスは水を求めて部屋を出た。
静まり返る廻廊を歩いていると、ふと窓の外に人の姿を見かけた。
(パメラ……?)
暗がりで何をしているのがよく分からないが、マッチが擦られ火が灯った。その横顔はいつもの笑顔ではなく、そのまま消えてしまいそうなぐらい儚いものだった。
「っ!」
アドニスは無意識のうちに駆け出した。足はまっすぐパメラを求めて動き出す。心の中ではずっとパメラの名を呼んでいた。
――どんっ
「っ!」
廻廊の角を曲がった所で、誰かにぶつかる。
「旦那様?」
息を切らせ、ぶつかった相手を見つめる。そこには執事がいた。驚きの表情でアドニスを見つめている。アドニスもまた、同じ表情で彼を見つめた。しばしの沈黙の後、アドニスは我に返り、焦った声で尋ねた。
「パメラは?」
「……奥様ですか? いえ、見かけませんでしたが……」
「そうか」
そう呟くと、アドニスはまた駆け出した。パメラがまだ外にいるかもしれない。そう思うといてもたってもいられなかった。執事が呼ぶ声がしたが、アドニスは構わず走った。
外に出るとパメラはいなかった。パメラの存在を消すように燃えたものも消えている。あれは幻だったのか? アドニスは考えてみたが、答えは分からなかった。
全速力で走ったから額に汗が滲んだ。それを手の甲で拭い、大きく息を吐き出す。限界まで息を吐くと、空を仰いだ。暗い空に瞬く星が見える。一縷の光のようなそれに、パメラの笑顔が重なった。閉じ込めたくて腕を伸ばすのに、手のひらには何も残らない。
(あぁ、そうか……俺は……)
ようやくアドニスは気づく。自分にとって、パメラがどういう存在なのかを。
パメラを失うことになったら、自分は気が触れてしまうだろう。無くしたくない大切なもの。その感情の名をアドニスは知っていた。