愛されることは望んでいませんから
白いノートが結ぶ思い
屋敷での日々は穏やかでパメラの心は変わらず弾んでいた。何より嬉しかったのはアドニスがパメラのことを名前で呼ぶようになったことだ。呼ばれるたびに心はあたたかくなり、ふわふわと夢心地になった。
しかし、パメラはこんなにも幸せでいいのだろうかと時折、不安になった。貴族の世界は冷たかったが、アドニスと屋敷の人々は誰もが優しい。そんなことは初めてだった。曾祖母の所に居たときは、このようなあたたかい眼差しを向けられたことはなかった。
だから、余計に不安になった。いつか、この幸せが無くなってしまうのだろうか……と。
パメラは知っていた。いくらパメラが願っても幸せは突然、奪われるものだということを。
父と引き離された時のように、孤児院から引き離された時のように。この屋敷からも引き離される日がくるかもしれない。そして、その時、自分は……本当に笑って進めるのだろうか。パメラには自信がなかった。それぐらいここの日々は幸せだった。
あくる日、アドニスに誘われて町へ繰り出した。アドニスと一緒に見る町はいつもの風景と同じなはずなのに、キラキラと輝いていた。
「旦那様、見てください! 美味しそうなお菓子ですよ!」
パメラは高揚した気持ちのままに、並んで歩いていたアドニスを置いて走りだそうとする。不意に手が掴まれた。勢いよく走り出していた足は急には止まれず、後ろによろけてしまう。アドニスが慌てて前に出て、パメラの体を支えた。
パメラの体は自然とアドニスの胸の中におさまる体勢になる。近づいた距離に驚いて顔を上げると、照れたような怒ったような顔があった。
「……勝手に行くな。迷子になる」
子供ではないのですから……とパメラは思ったが、離れがたくて「すみません」とだけ答えた。
二人はぎこちなく互いに離れる。
「…………」
「…………」
離れたことで気恥ずかしさが増して、無言になってしまう。それはアドニスも同じようで互いに沈黙した。
いつもの調子で話しかければよいものを声が出ない。自然と視線は下がり、何か言わなければと焦ってしまう。
すると、パメラの視線の先に手のひらが見えた。
顔を上げると、アドニスは怒ったような照れているような顔をまだしている。差し伸べられた手。パメラはそっと、そこに手を置いた。包み込むように握られる。少しだけ彼の表情が緩んだ。
「行くぞ」
驚く暇もなくアドニスは歩きだす。パメラの足も合わせて動き出した。
手はいつしか絡まるように繋がれていた。指の隙間からお互いの熱が伝わっていく。それが恥ずかしくて、振り払うように、パメラはわざとはしゃぎ続けた。必要以上に笑い、声を出した。
そうしなければ彼に伝わってしまうと思ったからだ。
この胸の高鳴りが。
痛いくらいの鼓動が。
指を通して、彼に伝わる。
それは隠しておきたい。大切な思いだった。
愛されることは望んでいない。
パメラは戒めのようにそう言い聞かせていた。だが、愛されることを望まない人間がいるだろうか。パメラは神でも聖人でもない。ただの娘だ。だから、日に日に想いは募る。
愛されたい
愛されたい、旦那様に
旦那様を愛しているから
気がつくと白いノートはその言葉で埋め尽くされていた。慌てて破こうと手をノートにかけた。ビリっと嫌な音がする。
「っ……ふっ……」
パメラは最後までノートの紙を破れなかった。代わりに涙が溢れて零れ落ちる。落ちた涙がノートを濡らし、文字を滲ませた。次から次へと。
この思いを消したくはなかった。
無かったことになどできなかった。
パメラはノートに顔を突っ伏して泣いた。せめて誰にも気づかれないように声を殺して。肩を震わせて泣いた。