ことなかれ主義令嬢は、男色家と噂される冷徹王子の溺愛に気付かない。
「ハンカチを持っていない。これで許せ」

「…はい」

それが嘘であると、リリーシュも気付いていた。涙を掬われる度にルシフォールの指が微かに頬に触れるのも、恥ずかしくてくすぐったい。それでも彼女は何も言わず、ただ目を閉じそっと身を任せた。

「お前は、その…俺に対して腹を立てているのではないのか」

「腹を、立てる?」

その言葉に、リリーシュがぱちりと目を開ける。バツの悪そうな表情のルシフォールと視線が絡んだ。

「王妃や他の貴族達の前であんな…それにあの、エリオット・ウィンシスにも誤解されるような事をしたのに」

「誤解とは何でしょうか」

「リリーシュが、俺のものだと」

段々とルシフォールの声が小さくなる。リリーシュはきょとんとしながら彼を見つめていたが、じんわり心の中が温まっていくような感覚に思わず胸元を押さえた。

(この方はとても、臆病なんだわ)

最初の態度からは、とても考えられない事だ。自信に満ち溢れ、まるで世界で一番自分が正しいかの様な態度でこちらを見下していた。口を開けば出ていけだのなんだのと、腹の立つことばかり。

しかし少しずつ、本当に少しずつ見えてきた彼の心の中。

天邪鬼で寂しがり屋で、拒絶される事を怖がっている。

自分はどうせ愛されはしないと、諦めているようにさえ感じる。

手を伸ばし求める事が怖いから、初めから全てを跳ね除ける。本当は誰よりも強く、救いを求めているのに。

「誤解ではありません、ルシフォール様」

「リリーシュ?」

ルシフォールの指が頬から離れた事を、リリーシュは寂しいと感じる。そしてそう感じた自分自身に、彼女は内心驚いていた。

この出会いで変わろうとしているのはルシフォールだけではない。

リリーシュもまた、同じだった。

「私はここへ来た時からずっとルシフォール様のものです」

「…」

「貴方がそれを、許してくださるのなら」

「俺はお前を好きだと言った。許さない訳がない」

「そうですか」

ホッとしたようにリリーシュの頬が緩む。ルシフォールはそれを、とても可愛らしいと思った。

「ですがもう一つだけ、謝らなければならない事があるのです」

かと思えば今度は、ふにゃりと眉を下げて困った顔をする。ルシフォールはそれも、とても可愛らしいと思った。

「あれからずっと考えていたのですが、私はそういう事を意識して生きてこなかったので、男性を好きだと思う気持ちがよく分からないのです」

「そう、なのか」

「はい。ですのでルシフォール様と同じ気持ちを返せるのかどうか、まだ自信がなくて…」

ルシフォールは内心複雑な心境だったが、リリーシュが恋愛というものを理解していないという事は、エリオットをそういう対象に見た事はないという風にも捉えられる。

リリーシュにとってあの男は本当にただの幼馴染でしかないのかもしれないと思うと、胸の中を覆っていた霧が幾らか晴れたような気がした。

まぁ、同じように自分もまだ恋愛の対象としては見られていないと言われた訳ではあるが。

「俺を、嫌ってはいないのか」

「はい。私は貴方を嫌いではありません」

「そうか。今はそれで、充分だ」

ルシフォールがふわりと笑う。初めて見るその笑顔に、リリーシュは胸の奥がむずむずするような気持ちになった。

まるで、降り積もった雪をかき分けて芽吹くクロッカスの蕾のように。
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