ことなかれ主義令嬢は、男色家と噂される冷徹王子の溺愛に気付かない。
リリーシュは自身に与えられた部屋に置かれてあるカウチソファに腰を下ろし、ぐるりと辺りを見回した。ルシフォールの部屋とは違う、豪華なシャンデリアに調度品の数々。今日からはここが自分の生活の拠点となるのに、何だかそわそわとして落ち着かない。

「…」

リリーシュの視線の先にあるのは、一枚の扉。この隔てた扉の先には、ルシフォールが居る。そう考えると何だか不思議な気がすると、リリーシュは思った。

(まだ答えも出せていないのに軽率だったかしら)

恋愛に関してこと鈍感、というより何も知らないリリーシュでさえ、今自分がルシフォールにしている事が非常に不誠実なものであるというのは理解していた。

しかし、特別な愛というものが分からないのも事実。家族や幼馴染に向けるものと、たった一人の男性に向けるもの。どこがどう違うのか、それはいつどんな時に気付くものなのだろうか。

分からない事は、それ以上考えない。今までそうして生きてきたリリーシュにとって、分からなくても考えようとすること自体が苦手な事だったのだ。

だけど、それでも考えたいと彼女は思う。無表情に見えるけれど、「リリーシュ」と自身の名を呼ぶ時にだけ微かに頬を緩めるルシフォールの姿を思い出すと、ふわりと胸の内が温かくなる。

あのルシフォールが、アイスブルーの瞳を揺らめかせながら気持ちを伝えてくれたのだ。それを、中途半端な気持ちで返す訳にはいかない。

(もっと、ルシフォール様の事が知りたいわ)

扉をジッと見つめながら、リリーシュはそう思った。彼はこの扉の向こうで今何をして、そして何を思っているのだろう。

以前、あの舞踏会の夜リリーシュが”殿下″と呼んだ時のルシフォールの悲痛な表情を思い返す。産まれながらにして、彼の一生は決められた様なもの。公爵令嬢である自分とは非にならない程の重圧や責任が、あの双肩にのし掛かってきたのだろう。

遥か遠い記憶ではあるが、幼い頃はリリーシュだってそれなりに夢を持っていた筈だった。あおあおとした若草色の草原を駆け回ったり、時間も忘れて野うさぎを追いかけたり。甘いものをお腹いっぱい食べたいだとか、遠い異国の地へ行ってみたいだとか。

それに、憧れのエリオットとの結婚も。

やがて成長するにつれ、そういうものは全部諦めてきた。反抗する事も、親の目を盗んでこっそりなんて事もせず、ただ言う通りに人生を歩んできた。

リリーシュの母であるラズラリーは、彼女を滅多に叱らなかった。思い通りにならない事があると嘆き悲しみ、自身が悪いのだと夫に泣きついた。そんな母親の姿を、リリーシュは見たくなかったのだ。だからといって、戦う勇気もなかった。

(確かに私達は、どこか似ているのかもしれないわ)

いつかルシフォールに言われた言葉を思い返す。あの時はただ慰めの為にああ言ってくれたのだと思っていたが、案外そうではないのかもしれない。

手段や表現方法は違えど、私達は諦めていたのだ。夢や希望に、手を伸ばす事から逃げ、より自身が傷付かない道を選んだ。ルシフォールは己の殻に閉じ籠り全てを拒絶し、リリーシュは仕方のない事だと己を慰め全てを受け入れた。

「…私も、変われるかしら」

誰も居ない部屋で、一人ポツリと呟く。変わりたいなどと思った事は、今まで一度だってなかったのに。

もしもあの扉を自分から開く事があるなら、それはどういう感情をルシフォールに抱いた時なのか。今のリリーシュには、まだ想像もつかなかった。
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