ことなかれ主義令嬢は、男色家と噂される冷徹王子の溺愛に気付かない。
ふと気が付くと、リリーシュはネグリジェを身につけ侍女のルルエに髪を梳かしてもらっている最中だった。

(私はいつの間に…)

ルシフォールの住まう宮殿を出てから今この瞬間まで、リリーシュは自分が何をしていたのかさっぱり記憶がなかった。

「お嬢様ったらぼーっとなされて、そんなに眠いのですか?」

「ルルエ。私どうやって部屋に戻ってきたのかしら」

「殿下がここまで送ってくださったじゃないですか。私もう、それはそれは驚いてしまいました!」

興奮したルルエの手に力が入り、リリーシュの髪を少しだけ引っ張ってしまった。彼女は謝罪したが、リリーシュの耳には全く届いていない。

「ルシフォール様、何かおっしゃっていなかった?」

「いえ、特には。また夕食でと、すぐにお帰りになられましたけど」

「私夕食もルシフォール様と共にしたのよね?」

「もちろんです。お嬢様、本当に一体どうされたのですか?」

「いいえ、何でもないわ」

「お医者様を呼んで頂かなくても?」

「平気よ。少し疲れただけ」

「では今夜は、良く眠れるようホットワインでもいかがですか?」

「えぇ、ありがとうルルエ」

「すぐに用意してきますね」

ルルエはリリーシュの髪を緩くひと束に纏めると、櫛を置きそのまま部屋を出て行った。リリーシュは鏡の前に座ったまま、ボーッと自身のヘーゼルアッシュの瞳を見つめた。

ーー好きだ、リリーシュ

瞳の中にパッと映った、ルシフォールの姿。アイスブルーの瞳がジッとこちらを捉え、触れ合った指先は微かに震えていた。

「…まぁ」

鏡に映る自分の頬がすっかり紅く染まっている事に気付き、リリーシュは慌てて視線を逸らす。胸に手を当てると、いつもよりずっと心臓の鼓動が早い。

(好きだなんて、初めて言われたわ)

ルシフォールから愛を伝えられるなんて、まさか夢にも思わなかった。最近雰囲気が柔らかくなったとは感じていたが、まさか好きだと言われるとは。

からかっているようにも、何かを企んでいるようにも見えなかった。ルシフォールはただ真っ直ぐにリリーシュだけを見つめていた。

これまで何があろうとも、リリーシュは受け入れてきた。半ば売られる形でこの場にやってきた時も、彼女はこれが自分の運命だと思った。大きな不幸せの中のにある筈の、小さな幸せを掌に包んで生きていこうと。

絶対に愛される事などありはしないとそう思い、そしてそれを受け入れたリリーシュは突然の事に気持ちの整理が全くつかなかった。

ルシフォールから想いを告げられた後からやけに頭の中がふわふわとしてハッキリしないが、彼は確かに”返事は待つ“とそう言った。

あれだけ辛辣な扱いをしておいて今更好きだなんて、と思う気持ちがない訳ではないが、それでもリリーシュの胸は制御不能なほどに脈打っている。

(私はこれから、どうしたいのかしら)

幾ら考えても、分からない。分からない事は、考えない。それがリリーシュの信条である筈なのに。

考えまいとすればする程に、あのアイスブルーの瞳が頭の裏に焼きついて離れなかった。
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