【完結】傷モノ令嬢は冷徹辺境伯に溺愛される
※※※

それから一週間後、書斎にこもり溜まっていた書類に目を通していたエドガーの元へルシアンがやって来た。急ぎの用件だと告げ、エドガーを書斎から連れ出した。

「ルシアン、どこへ行くんだ」
「まあまあ、そう怒らずについてきてください。後悔はさせませんから」

 ルシアンはくいっとインテリぶってメガネを指で持ち上げる。

「まったく、なんだっていうんだ。俺は忙しいんだ」

ブツブツと文句を言いながらルシアンの後を追っていく。ルシアンはエドガーが杖を突いていることなどお構いなしにズンズンと歩を進める。

『確かに後遺症はあるかもしれませんが、私はエドガー様を甘やかしたり特別扱いはしませんからね』

 以前言われたルシアンの言葉が蘇る。怪我を負った後も、同情せずに接してくれたルシアンにエドガーは救われていた。しばらく歩くと、どこからともなく甘い匂いがした。

「これはなんの匂いだ?」

 砂糖やはちみつのような甘い香りは調理場から漂っている様だ。

「まさか……」
「ええ、そのまさかです。エドガー様には内緒にして欲しいと頼まれていたのですが、どうしてもアイリーン様の可愛らしいお姿をお見せしたくてお連れしました」

 調理場の小窓から中をこっそり覗き見る。そこには白いフリルのエプロンを身に着けて、長い髪を後頭部に綺麗に巻き付けてピンでしっかり留めたアイリーンがいた。
 普段は髪を下ろしているせいか、その姿は新鮮だった。アイリーンの小顔と細い首筋が際立っていて、エドガーは食い入るように彼女を見つめた。
アイリーンはワンピースの袖をきちんと肘の上までまくり上げて、粉やバターを一生懸命混ぜている。その表情は真剣そのものだ。そばにいた侍女のシーナも同じエプロンを付け、アイリーンがかき混ぜやすいようにボウルを押さえている。粉のついた手で顔を触ったのか、シーナの顔は粉まみれだった。
アイリーンはシーナの顔を見てはクスクス笑い、その笑いにつられてシーナまで声を上げて笑っていた。互いに打ち解けている様子の二人は、終始和やかな雰囲気だ。

「ずいぶんたくさん作る気なんだな?」
「ええ。我々の分だけでなく、屋敷で働く使用人の分も作るとおっしゃっていました」
「使用人の分も作るとなれば、百個以上ということか?」
「そのようですね。アイリーン様の作ってくれたお菓子が食べられると、使用人たちも楽しみにしています。もちろん、わたしもです」

 エドガーはルシアンに目を向けた。ルシアンは執事という職業柄、他人に対して疑り深い性格だった。穏やかな笑みを浮かべてはいても、誰に対しても用心深く接し、簡単に心を許すようなことはない。冷静に相手の正体を見極めることのできる確かな目を持っている。そのルシアンが、初対面のアイリーンをすぐに受け入れた。その理由がひとつだけ頭に浮かんだ。

「ふふっ、シーナの顔がすごいことになっている。本当におっちょこちょいだな……」

 クスクスと楽しそうに笑うルシアンの横顔を見ていると、エドガーはむずむずしてきて我慢ができなくなった。
 ルシアンは胸やけしてしまいそうなほど甘い視線をアイリーンに送っていた。長年エドガーの執事として仕えてくれているが、こんな顔を見たのは初めてだった。

 エドガーの胸の中で湧きあがった嫉妬の炎が、ぽっと音を立てて爆ぜた。
 ルシアンは独身で三十五歳の健全な男だ。美しいアイリーンに惹かれてもおかしくはない。
エドガーと違い、気が利いて女性の扱いも上手い上に、男としての余裕がある。自分が女性だったら、エドガーではなく、ルシアンに惹かれるだろう。
そう考えると、胸をかきむしりたくなるほどの焦燥感に駆られた。

「ルシアン、俺に気を遣わず正直に答えてくれ」
「ええ、なんでしょう」
「お前は、アイリーンが好きなのか?」

 エドガーが尋ねるなり、ルシアンは「へぇ?」っと素っ頓狂な声をあげた。今まで聞いたことがないような声色だった。ルシアンは鳩が豆鉄砲を食らったような表情で立ち尽くしている。
 言い当てらえて驚いて声も出せないのだろうか。何かを堪えるように顔を赤らめて、目を見開き口をパクパクと鯉のように開けたり閉じたりしている。
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