もう一度、この愛に気づいてくれるなら
ディミーは、放浪民族の女が、よそ者と一夜を過ごして生まれた子どもだった。放浪先の言語をすぐに覚え、計算にも明るかったディミーは、いつしか集団で重宝されるようになった。しかし、所詮は女、民族をまとめるほどの立場は与えられなかった。
大人と変わらない背丈になったとき、ディミーは母に着いて移動するのをやめた。その頃には、誰もが自分よりも愚かしく見えてしようがなかった。
帝国で、働き者の若者を振り向かせ結婚した。しかし、商売を始めて次第に成功すれば、旦那は働かなくなった上に、暴力を振るうようになった。
有り金を持って家を出て、ラクアに向かった。食べ物がもっとも口に合ったからである。
とある屋敷の下女として入ったが、内戦がはじまり、ラクアの地方言語にも精通していることが家長に知られると、密偵として奉公することになった。
そうした過程で家長の主であるヴァロア公爵にも目通りすることとなった。戦争が終わり、ゲルハルトが即位し、しばらくしたのち、拝命したのが、「王妃エレーヌの放逐」だった。
ディミーは辻馬車を降りて兵士に囲まれたときには、最後を覚悟していた。
宿場町を出たときに、王都とは逆の方向に向かう辻馬車に乗るべきだったが、ディミーはあえてそれをしなかった。
国王と王妃を手玉に取ったのだ。もうこれ以上面白いことは望めないだろう。せっかくだから、エレーヌのいなくなった王宮を、そして可能ならばゲルハルトを見ておこう、ディミーはそう思った。
辻馬車を降りたところで早々に捕まるとは思わなかったが、地下牢に降りてきたゲルハルトの無機物のように生気のない姿を見たときには、ディミーは自分に拍手喝采したいくらいだった。
一国の王に打撃を与えているのが自分だと思えば、ディミーに優越感が込み上げた。
(所詮、この世は愚か者ばかり。最後に良い退屈しのぎができたわ)
最下層よりも下の流浪の民に生れた自分が、国王に傷跡を残した。ゲルハルトの憔悴ぶりを確認できたことで、処刑が待ち構えていようと王都に戻ってよかった、そう思った。
ゲルハルトには何の恨みもない。それどころか、ゲルハルトをディミーは風聞とは異なり高く評価している。聡明なゲルハルトを負かしたのは自分だ、と思えばこのうえなく気分が良かった。
そんな風に静かに処刑を待つディミーの前に、エレーヌが以前と変わらぬ、いや、以前以上に幸福感と健やかさを湛えて現れたときには、ディミーは声が出なかった。
(どうして、この子がいるの……)
ゲルハルトはもうエレーヌを完全に失ったと思い込んでいた。しかし、そうではなかった。ゲルハルトの方が一枚上手だったのだ。
エレーヌはか細い声で、しかし、はっきりと口にした。
「ど、どうして……、どうして、私を陥れるようなことをしたの……?」
ディミーはヴァロア公爵からの多大な報酬を得ていたが、金で動いたのではなく、《人の心をもてあそびたい》という簡単なことのような気がしてきた。
(おつむの弱い王女)
エレーヌを目の前にすると、ただ生まれだけで王妃になったエレーヌに、それに胡坐をかいて自分では何もしようとしてこなかったエレーヌに苛立ちが込み上げる。
「ふふふ………、たかが言葉で引き裂かれる愚かさよ………」
「確かに私たちは引き裂かれたわ。でも、ゲルハルトさまの大きな愛で、私たちは再び結ばれた。あなたはこれっぽっちの打撃も私たちに与えなかった」
ディミーの顔つきがみるみる変わっていった。
エレーヌはどこまでも愚かで鈍い少女のはずだった。
それが、どういうわけか、流暢によどみなく帝国語を喋れば、王妃の貫禄すらあるように見えた。
ディミーは自分のやった行為が、ただ、エレーヌを成長させただけだったかもしれない、ということに気づきかけて目を逸らした。
ディミーにとっては誰もかれも愚かな人間でなければならなかった。エレーヌはディミーの中では最も愚かしい類の人間であるはずだった。
何も言えなくなったディミーにエレーヌは言った。
「あなたがゲルハルトさまの愛がどれだけ大きいかを気づかせてくれたのよ。ゲルハルトさまの愛のお陰で、人をもてあそぶのを喜ぶ魔物に、勝つことができた」
ディミーはめちゃくちゃに踏み荒らしたはずの土壌で、美しい花が咲いたことを知った。
ディミーはエレーヌのような愚かしい存在に敗北していた。