もう一度、この愛に気づいてくれるなら
「あなたを愛することはない」
大聖堂。厳かにパイプオルガンの音が響き渡り、賛美歌の合唱が聞こえてくる。
エレーヌは一人、大聖堂の正面に立っている。重い衣装を着けていたが、たくさん食べたお陰か、それとも心地の良いベッドで眠ったせいか、体調はとても良かった。
参列者のなかに、ミレイユの姿があり、目が合うと笑顔で片手を振ってくれた。不思議と気持ちは落ち着いていた。エレーヌに流れる王家の血のせいかもしれなかった。
さきほどから、大聖堂の中は奇妙な間が続いている。婚姻を見届けようと参列する人々は、次第にざわめき始めた。
「陛下は?」
「今朝も馬で港に向かっていたぞ」
「もしや、すっぽかすつもりか」
「結婚式だぞ」
「陛下のことだ。なきにしもあらず」
廷臣らは「こりゃだめだ」と、天を仰ぐ素振りを見せるようになってきた。大主教はじっとしているが、その眉根がぶるぶるとヒクついている。
人々のざわめきが頂点に達したころ、大聖堂の入り口に影が立った。
花婿、ゲルハルトだった。さすがにすっぽかすことはなかった。
しかし廷臣らが顔をしかめることに、ゲルハルトは、シャツのボタンを留めながら聖堂に入ってきた。留め終わると今度はシャツの裾をズボンの中に入れ、側近にジャケットを着せられている。
「なんてこった」
その場にいる者たちは、呆れ果てているに違いなかったが、当のゲルハルトは、実にゆったりとまるで自分の部屋で過ごしているかのような落ち着きぶりで、赤絨毯を歩きながら衣服を整えていく。
最後にマントが肩にかけられたとき、ちょうど花嫁の横に並び立った。
エレーヌは、ベールの裾から黒いズボンが見えたので、ほっとした。
(よかった、ズボンははいているわ)
前を向いたままのエレーヌは、ゲルハルトが衣服を着ながらやってきたとは知らなかった。
誓いののち、エレーヌのベールがゲルハルトによって上げられた。
エレーヌは、花婿の顔を見た。
(黒目黒髪の肖像画の人だわ)
エレーヌは吸い込まれるようにゲルハルトを見つめた。
それは、昨日、エレーヌを怯えさせた半裸の男と同一人物に違いなかったが、きちんと髭を剃り、髪も整っており、別人に見えた。
ゲルハルトは、エレーヌにこの上なく優しい目を向けており、口元には甘い笑みを浮かべている。
(優しそうに見えるわ)
花婿はエレーヌに手を差し出してきた。エレーヌは、その手に自分の手を重ねた。
ゲルハルトが聖堂内の人々に向いて手を上げると、歓声があがり、その声は大聖堂のステンドグラスが割れんばかりに響いた。
さんざんな入場をしたゲルハルトだが、堂々とした態度には威風が備わっている。
大歓声を浴びながら、ゲルハルトに手を取られてエレーヌは馬車に乗った。
馬車の中で、ゲルハルトはとても優しい声でエレーヌに何かを言ってきたが、エレーヌには何を言われたかわからなかった。
それでも、エレーヌにはゲルハルトが精いっぱい怖がらせないようにしていることが伝わってきた。
(優しい人なんだわ、きっと。何を言っているのかわからないけど、私には優しくしようと思ってくれているような気がするもの)
エレーヌは半ば夢見心地でゲルハルトの顔を見つめ返していた。