もう一度、この愛に気づいてくれるなら
赤い旗を長くたなびかせている勇壮な兵団が、王宮前広場に整然と並んでいる。
(見たことのない旗だわ。外国からのお客様かしら)
エレーヌは生まれてから17年、その塔から外に出たことがなかった。
二年前までは母親がそばにいた。母親はエレーヌにかまどの扱い方、パンの焼き方、食料の保存方法、刺繍の仕方などを教えてくれた。家の中でできる仕事のほとんどを母親から学んだ。
ときおり塔を訪ねてくる老女がおり、出来上がった刺繍を、豆や干し果実や小麦粉などの食料に交換してくれた。
「エレーヌ、塔の外には魔物がいっぱいいるの。だから、ここを出てはいけないの」
エレーヌは母親にそう言われ続けてきた。
母親は寝る前にいろんな物語の話を聞かせてくれており、そのなかには魔物もたくさん出てきていたから、エレーヌは本当に外には魔物がいるものだと思い込んでいた。大きくなるにつれて、そんなものはいないとわかってきたが、塔の中で母親と過ごす暮らしはとても温かで幸せだったために、外に出たいと思うこともなかった。
そんなひっそりとした穏やかな生活は、母親がベッドから起き上がれない日々が続いたのち、終わった。
母親は最後の力を振り絞るようにしてベッドから起き上がると言った。
「エレーヌ、決してここから出ては駄目。ここに誰かを入れても駄目。お母さまがいなくなったあとも、ここで刺繍をして、必要なものと交換して生きていくのですよ」
母親はベッドから降りると階段を降りていく。エレーヌは母親が塔を出ようとしていることがわかった。
「お母さま、いかないで! 私をおいていかないで、お母さま!」
泣いてすがるエレーヌの頬を母親はぶった。立ちすくむエレーヌをおいて、母親は塔を出て、それきり帰ってこなかった。母親は、死に場所を求めて塔を出て行ったに違いなかった。
エレーヌはそれからずっとひとりきりだ。目が覚めると、その日の分のパンを焼き、スープを作り、刺繍を刺す。声を出すのはお祈りのときだけ。
週に一度、必要なものを持ってくる老女は、口が利けないのか、利くつもりがないのか、エレーヌと話すことはなかった。ただ、エレーヌが頼んだものを忠実に持ってくる。
母親はエレーヌにたくさんのことを教えたが、孤独から気を紛らわせる術をも教えてくれていた。それは本を読むことだった。擦り切れた一冊の本を見せながら、エレーヌは老女に言ってみた。
「あの、できればでいいんですけど、何か、本を、頼めますか。本って言うのは、こんな風に字がたくさん詰まったもののことなんですけど。食べ物を減らしてもらって、そのかわりでいいですから」
老女は、翌週、本を持ってきた。
パンを焼き、スープを作り、刺繍を刺し、本を読む。エレーヌは、そうやって塔の中でひっそりと、ひとりきりで過ごしている。
そんなエレーヌのささやかな生活は、突然、終止符を打った。
物音に目を覚ますと、階段を上がってくる靴音が聞こえてきた。靴音は一つや二つではなく、幾つもの靴音が重なっていた。
エレーヌは飛び起きてベッドの下に隠れたが、すぐに見つかり引きずり出された。
髭をたくわえた男の前に押し出された。
髭の男は、でっぷりと肥えて、王様のように偉そうだった。エレーヌのあごを取ると、エレーヌの顔を左右に揺すぶって観察する。エレーヌは恐ろしくてたまらなかったが、なすがままにされるしかなかった。
「そなたがエレーヌか。ふむ、これは使える」
怯えて震えているエレーヌを、男は抱きしめてきた。
「我が娘、王女エレーヌよ」
王様のような男は、本物の王様だった。
国王は手を付けた下女のことを覚えていた。その下女が、嫉妬深い王妃の手から逃れて、さびれた塔に隠れ住み、そこで娘を産んだことも、そして娘が育っていることも、ちゃんと把握していた。把握しながら放置していた。その娘が役に立つ日が来るまで。役に立つ日が来なければ、エレーヌは一生、塔で過ごしたに違いなかった。