もう一度、この愛に気づいてくれるなら
帆船

ゲルハルトは、その朝も、いろいろなものをエレーヌに食べさせた。それは色とりどりの野菜だったり肉だったり魚だったりした。

そして、最後には冷たい氷菓子が用意されていた。

(これは葡萄を擦って凍らせたものね。これもとてもおいしいわ)

昨日の朝食のとき、エレーヌが最初に葡萄を口に入れたことを、ゲルハルトは見ていたのかもしれなかった。

(私の好物が葡萄だと思って、これを作らせたのかしら?)

エレーヌはそう考えてみたものの、すぐに打ち消した。王都を囲う丘陵には葡萄畑が並んでいるし、今は収穫の季節だ。

(多分、たまたまだわ)

ディミーがときおり会話に入りたそうにしていたが、ゲルハルトが片言のブルガン語で喋るのをやめないために、ディミーの出番はほとんどなかった。

食事が済むと、ゲルハルトは、チェストに立てかけている望遠鏡に気づいた。

日に数度は、エレーヌは望遠鏡で外を眺めているために、いつも手の届く、居間に置いている。

ゲルハルトは手に取った。

「エレーヌ、###、スキ?」

≪###≫が望遠鏡を指すのだと理解したエレーヌは、大きくうなづいた。

「ボウエンキョウ、アリガトウ」

エレーヌがラクア語でそう言うと、ゲルハルトは嬉しそうな笑顔を向けてきた。そして、エレーヌに手を差し出した。エレーヌがその手に自分の手を重ねると、ゲルハルトはエレーヌをバルコニーへと連れていく。

「スキ?」

(何が好きか訊いているのかしら?)

「大聖堂も、市場も、よく見てるわ」

エレーヌはその方向に望遠鏡を向けて覗いてみた。

ゲルハルトはバルコニーから遠くを指さす。その指は王都の町並みの途切れたところに向いている。

「ウミ」

遠景には海が広がっている。

「ええ、海が見えるわね」

「ウミ、スキ?」

エレーヌは答えられなかった。海がどんなものか、エレーヌには想像がつかなかった。本でそれはとても広いものだとは知っていたが、空と似たようなものでつかみどころがないものだと思うに過ぎない。

「わからないわ」

「ウミ、イク」

エレーヌは首を傾げて、それから、うん、と、うなずいてみせた。

エレーヌにとって、ゲルハルトの言葉は、自分とは関係のないもののように聞こえていた。

(行けるものなら、行ってみたいわね)

エレーヌには外に出ることなど思いもつかないことだった。ラクア王国を追い出されるいつかその日まで、この部屋で過ごすものだ、ときおり命じられてどこかに出ることがあっても、それは以外はずっと部屋で過ごすものだ、そう思い込んでいた。

しかし、ゲルハルトはエレーヌのうなずきに、顔を輝かせた。勢い込んで言ってくる。

「エレーヌ、イク。ウミ、イク」

(えっ? 海に行くの?)

エレーヌが戸惑っていると、ゲルハルトは、困ったような、ねだるような顔つきをエレーヌに向けてきた。

「イヤ?」

「えっと」

「ウミ、イヤ? ###」

ゲルハルトはジェスチャーで、大きいものを作った。それが揺れる様に、「船」だと思った。

「船?」

「フネ! フネ、イヤ?」

海を船で移動するという。やはり本で読んだことがあったが、エレーヌにとっては途方もなさ過ぎて、現実味がない。

(いや、というか、想像がつかないわ)

エレーヌはそのときになってはじめて、部屋の外に出る、という行為についてはっきりと認識した。エレーヌはずっと塔の中で生活してきており、外に出る、という行動を思いつくこともなかったのだ。

誰に部屋を出ることを禁止されているわけでもないにも関わらず、エレーヌは部屋でずっと過ごしてきた。それが当たり前のように感じてきた。

(もしかして、私は部屋を出られるの?)

「私、外に行けるの?」

ゲルハルトはエレーヌに笑顔を向けている。

「じゃあ、行きたい……。わたし、外に行きたいわ!」

エレーヌから思わず大きな声が出た。

(わたし、ずっと外に行きたかったの……?)

自分でも気づいていない要求だった。それを、そのときになって自覚する。

(私、出たかった。この部屋から出て、外に行ってみたかった。ただ、出るということを思いつかなかっただけなんだわ。ううん、外に出たい気持ちを抑え込んでた)

望遠鏡で見た王都の町並み、それを自分の目で見てみたい。一度、その要求を自覚すれば、もう抑えられなくなった。

「私、外に行きたいわ! 海に行きたいわ! 船も見たい!」

エレーヌが言うと、ゲルハルトはますます顔をほころばせた。

「エレーヌ、ウミ、イク。ワタシ、ウレシイ」

しかし、エレーヌには不安も湧き起こる。

「でも、怖いわ」

「ワタシ、コワイ、シナイ。ナカヨク」

ゲルハルトはエレーヌをしっかりと見つめて、そう答えた。

「ゲルハルトさまも一緒に行ってくれるのよね?」

外の世界はエレーヌには怖いような気がしたが、ゲルハルトは国王だ。これ以上頼もしい存在はいない。

エレーヌはおずおずとゲルハルトに笑顔を向けた。

「じゃあ、連れて行ってもらおうかしら。海に。外の世界に」

エレーヌがゲルハルトに言うと、ゲルハルトは破顔した。
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