もう一度、この愛に気づいてくれるなら
ハンナからミレイユ来訪の報せを受けたとき、エレーヌは、ゲルハルトの膝に座り、刺繍をしていた。

ゲルハルトはゲルハルトで、片方の手をエレーヌの腹に回し、もう片方の手に書類を持ち、目を通しているところだった。

エレーヌは慌ててゲルハルトの膝の上から降りようとするも、ゲルハルトがエレーヌを抱く手に力を込めたために、うまくいかなかった。

ゲルハルトがエレーヌの横顔に後ろからキスして言う。

「エレーヌ? このまま、だめ?」

上目遣いにそう言われると、エレーヌとしても離れ難くなる。しかし、貴婦人の前で、夫の膝に乗るなど、無礼を働きたくない。それに、ミレイユは恩義のある人だ。

エレーヌはゲルハルトの頬を両手で包んで、軽くキスをして、言い聞かせるようにした。

「ゲルハルトさま、だめよ、ちゃんとしなくちゃ」

「チャント?」

「ええ、ちゃんと」

ゲルハルトはその言葉の響きが気に入ったのか、うなずいた。

「チャント! わかった。チャント!」

エレーヌは知ったばかりの言葉を得意げに使うゲルハルトに、またもや、胸をくすぐられる。

エレーヌはミレイユを出迎えるために立ち上がった。

黒衣の裾を優雅に揺らして部屋に入ってきたミレイユに、エレーヌは、慕情を感じた。

「ミレイユさま……!」

エレーヌがミレイユに駆け寄ると、ミレイユは両手を広げた。エレーヌがミレイユの腕に飛び込めば、ミレイユは優しく抱きしめてきた。

『エレーヌ、ごきげんよう!』

ディミーがミレイユの言葉を訳す。

『エレーヌ、あなた、少しふっくらしてますます美しくなったわ。健康そうで何よりよ』

「ミレイユさま、私、ラクアの料理がすっかり好きになりましたの」

ゲルハルトがエレーヌにいろいろなものを食べさせるために、エレーヌは多くのものを食べられるようになった。

ミレイユは居間に入ると、ソファにゲルハルトが座っているのを見て、少しだけ眉をひそめた。

エレーヌにミレイユの忠告が蘇る。

――あの男は乱暴者で無神経で自分勝手だから、決して心を許しては駄目よ。

(せっかく、ミレイユさまが忠告してくださったのに、私はまんまと心を許してしまったわ)

エレーヌはミレイユに向けて取り繕うように笑った。ミレイユは、ゲルハルトに向けて冷ややかな声を出していた。

「ゲルハルト、######」

(ゲルハルトさまをお叱りになっているのかしら)

ディミーを見るも、ディミーはエレーヌに向けられた言葉ではないためか、一向に訳そうとはしない。目を伏せているだけだった。

ミレイユはゲルハルトの義姉である。ゲルハルトは煙たそうにミレイユの話を黙って聞いているも、急に立ち上がりエレーヌを抱き上げてきた。エレーヌはバランスを崩しかけて、ゲルハルトの首に腕を回してつかまった。

「エレーヌ、わたし、こわい?」

唐突に訊いてきたゲルハルトに、エレーヌは首を横に振った。

「いいえ、最初は怖かったけど、今は全然よ。だいじょうぶ」

「ミレイユ、エレーヌ、しんぱい。でも、だいじょうぶ。エレーヌ、ゲルハルト、なかよし」

ゲルハルトの言葉から、ミレイユがエレーヌを心配していることが伺われる。

「ミレイユさま、私、大丈夫です」

(大丈夫、ゲルハルトさまには愛する人がいることをわきまえているわ)

ミレイユは後ろに控えていた女性を紹介してきた。

眼鏡をかけた三十過ぎの貴婦人だった。

『エヴァンズ夫人よ。あなたに帝国語を教えてくれるわ』

エレーヌはそれを聞いて、顔を輝かせた。

「まあ! 私に帝国語を教えてくれるのね! 私、うれしいわ! ミレイユさま、ありがとう!」

エレーヌはゲルハルトの腕の中でもがけば、ゲルハルトがエレーヌを降ろした。

エレーヌはミレイユに抱き着かんばかりに礼を言い、エヴァンズ夫人の手を取った。

そんなエレーヌを、ゲルハルトは、唖然とした顔で見つめていた。
< 53 / 107 >

この作品をシェア

pagetop