もう一度、この愛に気づいてくれるなら
王宮を出ると決めてから、エレーヌはさっぱりした気持ちになった。

(太后からも貴族からも嫌われている私よりも、マリーさまが王妃の方がいいはず。偽物の王女よりもよっぽどいいわ。それに、何よりゲルハルトさまがもっとも愛しているのはマリーさまなのだから)

当初から苦しめられてきた《あなたを愛することはない》との言葉にも、もう傷つかなくなっていた。

愛されようと愛されてなかろうと、エレーヌはゲルハルトを愛している。

人を愛する喜び。その喜びをゲルハルトがくれた。それで十分だ。

さすがに世間知らずのエレーヌでも、そう簡単に、王宮から逃げられるとは思ってはいない。しかし、ブルガン王国の第三王女にだってできたのだからエレーヌにできぬことはない。協力者さえいえば。

出て行くことを決意したエレーヌはディミーに相談した。

エレーヌにはディミーしか頼る人がいなかった。ディミーは初夜から起きたことをすべてを知っている。それに、ディミーは、ずっとエレーヌに同情的だった。

ディミーはブルガン国王から遣わされた通訳であるために、政略結婚が不意になるのを阻止しなければならない立場のはずだが、意外にもディミーは前向きなことを言ってきた。

「私が何とかしますわ」

「えっ?」

「王宮を出たいお気持ちはよくわかります。愛されていないのはおつらいでしょう」

ディミーに同情されて、エレーヌは涙ぐんだ。

ディミーはそんなエレーヌの肩を抱いてきた。言葉の分からないハンナは心配そうな顔で見ているが、事情を知られるわけにはいかない。

「ずっとエレーヌさまをお気の毒に思っていたんです。私にお任せください」

ディミーは力強く言ってきた。

それから、エレーヌは、ディミーが立てた計画通りに事を進めた。

その日の帝国語の授業はお休みし、抱き人形のお礼にと、マリーに赤ちゃんのおくるみを作ることにした。出来上がれば、その午後、マリーの部屋を訪れるのを装うことにした。

マリーへの訪問をゲルハルトに言えば、ゲルハルトは了承してくれた。

了承したときのゲルハルトは、どこかおぼつかない、生気のない顔をしていた。もの悲しげな目でエレーヌをじっと見つめてきた。そして、エレーヌを何度も抱きしめて、最後には顔を背けて、部屋を出て行った。

ハンナが着いてきたがったが、ゲルハルトとの明日のお出かけのドレスを選ぶように頼むと、しぶしぶ下がった。

マリーの部屋に行くふりをして、ディミーの案内で別の部屋に向かう。そこで、お仕着せに着替え、かつらをかぶり、更に眼鏡をかけた。ディミーも同じく変装し、王宮に出入りしている商人の馬車に乗った。

ディミーは商人と通じているらしく、すんなりと馬車に乗ることができた。

呆気ないほど簡単に事が運んだ。

それから商人の屋敷に着いてそこで馬車を乗り換えることになった。商人は親切にも、護衛騎士を複数つけてくれた。

「もうここで降ろしてくれてもいいのよ。これまでも一人で生きてきたのだし、刺繍の腕でなんとかなるわ。ラクアの王都の隅ででも人知れず生きていければ」

エレーヌがそう言うもディミーは首を横に振った。

「エレーヌさま、王都は若い娘が一人で住めるようなところではありません。田舎領主に針子として受け入れてもらえるように手はずを整えますので」

ディミーは何から何まで頼りがいがあった。

馬車はその日のうちに、王都を離れ、日が暮れる前に宿場町に着いた。そこで一泊することになった。

宿の部屋は簡素で、ベッドも木がむき出しの粗末なものだったが、もともと塔に住んでいたエレーヌにとって、上等なものだった。

エレーヌはベッドに座り、ぼんやりとしていた。大胆なことをしでかして、あろうことか、それが成功してしまった。

緊張が、ゆっくりとほどけていくと、悲しみが襲ってきた。

(私、本当に王宮を出てしまったんだわ。もう二度とゲルハルトさまには会えないんだわ……)

ブルガンを出てから今までのことがまるで夢だったように思えてきた。

塔にひとり孤独に生きてきた少女が王妃になるなんて、まるでおとぎ話。

(でもゲルハルトさまに愛されたのは本当。たとえ、かりそめだとしても本当。私はそれを胸に生きていく。ゲルハルトさま、愛しています。どうぞ、ゲルハルトさまの人生が、実り豊かで安らぎに満ちていますように。ゲルハルトさまに幸多かれ……)








不幸にもエレーヌは、自分こそがゲルハルトの幸福だとは気づいていなかった。

それはゲルハルトにとってもエレーヌにとっても不幸なことだった。

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