もう一度、この愛に気づいてくれるなら
妻への想い
ゲルハルトは妻を胸に抱きながら、手ごたえの無さにおののいていた。

エレーヌの心を手に入れたと感じたのもつかのま、あえなく手から零れ落ちてしまった。

***

エレーヌは、ブルガンの血を引く大事な妻だったが、ゲルハルトはエレーヌ自身に惹かれていた。

異国から一人で来た妻を出迎えたとき、ふるふると震えているエレーヌに胸がうずいた。気を失ったときには、憐れでたまらなくなった。

このはかない妻を大切にしたい、ゲルハルトは強くそう思った。

ゲルハルトには海と船と山野と馬しかなかった。好きなものを追いかけて生きてきた。そこに戦争が割り込んできてやむなく国王となった。

政治で結婚した相手だったが、エレーヌを見たとき、この世界にない淡い色を見せられたような心地になった。

ゲルハルトがエレーヌを怖がらせている、と側近に言われ戸惑った。

ゲルハルトには妻にどう接すれば良いのかわからなくなった。

大切したいが、どうやって大切にすれば良いのかもわからない。

とりあえず、帝国語を解さないと知って通訳を付け、医師をあてがい、護衛騎士も手厚くつければ、「男ばかりに囲まれて、エレーヌが可哀相だった」とミレイユに言われてしまった。

折よくブルガン国王が通訳をこなせる侍女を遣わせてくれたので、エレーヌの対応はその侍女に頼ることにした。

初夜には、怖がらせないように精一杯に気を配ったつもりだった。

「エレーヌを大切にする、怖がることはしない」

そう伝えるも、エレーヌはゲルハルトを怖がって、ベッドカーテンの後ろに逃げ込んだ。

エレーヌは、涙を流しながら言った。

『私はあなたが恐ろしくてたまりません。もう二度と近寄らないで』

そして、自分の寝室へと逃げて行った。

取り付くしまもなかった。

また、エレーヌは、『一人で過ごすのが好きで外には出たくない、貴族との交流が苦手だ、侍女がそばにいるのを控えて欲しい』、と伝えてきたために、ゲルハルトもエレーヌの部屋を訪れず、侍女も用のあるとき以外は近寄らせず、そっとしておいた。

それでも、毎日、エレーヌに贈り物を届け続けた。ときには側近のアレクスに届けさせることもあったが、そんなときに限ってエレーヌが廊下に出てきたと知り、タイミングの悪さを呪った。

結婚して一か月経つ頃には、さすがに貴族からの不満が大きくなった。

「国王は王妃を甘やかしすぎだ」

「いい加減、挨拶くらいさせるべきだ」

それで、晩餐会を開くことにした。

臆病な少女に見えていたエレーヌは、一か月の間に、見違えるほど成長していた。痩せて痛々しかった体はふっくらと丸みを帯びていた。

ゲルハルトの選んだ紫色のドレスを優美に着こなし、贈ったアクセサリーはエレーヌを大人びて見せていた。

金髪を高く結いあげて、どこか敵対するような目でゲルハルトを見てくるエレーヌは、ひどく美しかった。

淡い色だったものが華やかに色づいたのを感じ、また、ゲルハルトの胸がうずいた。

エレーヌに手を差し出すと、エレーヌはしっかりとゲルハルトの手に自分の手を乗せてきた。

「必要な物はないか」「一人で退屈していないか」と訊いても、『はい』と返事があるだけだった。

エレーヌは、太后や貴族の妻に向けて、刺繍のハンカチを用意していた。横目に見た刺繍は細やかで、彼女の丁寧さ、根気強さを思わせた。

刺繍のハンカチでエレーヌへの評判は上がるかと思われた。

しかし、決定的なことが起きた。エレーヌの挨拶だった。

『私はこの国が嫌いです。一刻も早く国に戻りたいです』

よく聞き取れないほどのか細い声だったが、随分と傲慢な挨拶だった。ブルガンは確かに由緒正しい国で、新興国のラクアを見下したくなるのだろうが、あまりにも礼儀のない発言だ。

当然のように、貴族らはエレーヌの発言に明らかに気分を害していた。温厚なカトリーナの眉も、ピクピクと震えていた。

しかし、ゲルハルトは、エレーヌを憐れに思うだけだった。口に出さずにはいられないほど、エレーヌはこの国を嫌っており、なのになおもここにとどまっているのだと思えば健気にも感じた。

エレーヌは『晩餐会が耐えられない。部屋に帰りたい』と言ってきたが、ゲルハルトは首を横に振るしかできなかった。

ここで帰せばエレーヌはますます評判を落としてしまう。

エレーヌにとっての真実は「ラクア語を習いたい」と言ったのを、ゲルハルトに首を横に振られてしまうという失望に満ちた出来事だったのだが、ゲルハルトには知るよしもなかった。

ただただ、ゲルハルトには、晩餐会でつらそうに涙をこぼすエレーヌが憐れでならなかった。

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